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法事へ行ったのだから(父のこと)

  • Posted by: 和泉 昇
  • 2008-12-05 Fri 05:26:00
  • 未分類
私の mixi 日記は「記憶の整理箱」にすると以前に書いた。
法事へ行ったのをきっかけに、父の記憶も入れておこうと思う。
少しは、供養の気持も込めて。

新しく書くのには、今は時間が足りないなぁと思っていたのだが、
未だに片付かない引越し荷物の中から、一冊の本を見つけた。
『再度アマゾンを訪ねて』という、父の著書である。
私が生まれて初めて「発行人」になった本でもあった。


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写真  写真


そこに著者紹介があるので、はじめに載せて置こう。
書籍として発行しているのだから、もはや、個人情報でもないだろう。

和泉昇次郎(いずみ・しょうじろう)

大正三年六月二十五日、和泉八五郎、いその長男として山形県天童市の商家に生まれた。
兄弟は四男四女、県立山形中学を経て昭和十年山形高等学校理科乙類を卒業。
同年、東北帝国大学医学部に進み、昭和十四年三月卒業、同大学熊谷内科に入局、五月に応召。歩兵第一線部隊付軍医として北支那山西省に転戦七年。昭和二十一年帰還、東北大学抗酸菌研究所に転じた。翌年三月、山形県川西町の酒造業井上庄七の娘ミツと結婚。
昭和二十六年六月、恩師海老名敏明抗酸菌病研究所教授のすすめで、秋田県本荘市(現在・由利本荘市)の秋田県厚生農業協同組合連合会由利組合総合病院院長として赴任、この地を終生の土地として選ぶことになった。この間、昭和二十九年から三十年にかけて東北大学助教授(抗酸菌病研究所)、青森県立中央病院副院長を兼務。
昭和三十六年九月にカナダで行なわれた第九回国際結核病学会に出席、引き続き四十日間にわたり単身アマゾン流域の邦人移住地の視察調査を決行。十一年後の昭和四十七年、再度アマゾン流域を訪れ、十年間の変貌の実態を『再度アマゾンを訪ねて』としてまとめた。
昭和四十九年十一月、秋田県文化功労賞を受賞。
昭和五十一年十二月二十四日執務中、解離性大動脈瘤のため倒れ、年もおし迫った十二月三十日、『再度アマゾンを訪ねて』の発刊を見ずに、秋田大学医学部附属病院で永眠、享年六十二歳。
医学博士。日本農村医学会理事、日本内科学会評議員。
昭和五十二年一月十日、本荘市文化会館で行なわれた秋田県厚生農業協同組合葬では「比類ない高潔な人となり」「医の大道をいく生涯」「片田舎のシュヴァイツァー、偉大な啓蒙者」と市民、郡民に哀惜され、寒風に花々を咲かせた生涯とも形容された。


          ワイングラス


父は秋田の田舎で、医者をしていた。
自分の父親のことで、少々照れくさいのだが、私は父を尊敬していた。
ひとりの男、ひとりの人間として。
若い時の父は、僧侶になることも考え、寺で生活したこともあったらしい。
ただ、友人の「心、心と言う前に、健康な身体を維持出来なければ」という言葉に、
はっと思い立ち、医者の道に進むことを決めたようだった。
しかし医者になった彼は、今度は、
生活を維持するための「社会」あるいは「経済」というものと直面することになる。
当時の東北の農家は、とても貧しく、いったん重病にかかったら、
医療費などは、とても無理。
黙って死んで行くしかないといった状況だったらしい。
「かまどが三つあっても足りない」という言葉を、良く聞かされた覚えがある。

自ら車で僻地へ出向き、無料での検診「巡回診療」などを行ったりもしていた。
普段、一緒にいられる時間が少ない小学生の私も、
夏休みには喜んで同行させてもらったりもしたのだが、
学校の体育館を借り、そこに布団を敷いて寝るという状況の中での診療だった。
早期に病気を発見しても、その後の治療費が出せない家が多かった。

父は、健康を維持するためには、まず生活状況を改善しなければ無理だと考え、
貧困で、出稼ぎをしなければ食べられない当時の農家の次男、三男のために、
ブラジルへの移住を勧めることを考え始めたようだった。
彼にとって「アマゾン」は、決して突飛な「夢」ではなかったのだ。
そのための調査に出かけた時の記録が、この本に纏められたのだった。

もちろん、こんな表向きの経歴ではない「生身の人間」としての父のことを、
いずれ一度は、きちんと書いておかなくては、と思ってはいるのだが、
取りあえず、今は、この本の「あとがき」のようなもの、
20代はじめの若造だった私が書いたものだが、それを載せておこうと思う。


写真


父のこと

昭和五十一年十二月三十日午前五時十分、父はこの本の発刊を待たずに、六十二歳のその生涯を閉じた。このアマゾンの視察記が、彼が生涯に残した最後の足跡になってしまった。
倒れたのは、十二月二十四日の午前中、父が勤務していた病院の院長室であった。
東京にいた私が電話で知らせを受けたのは、大学の卒業試験がなんとか終わり、幾分ほっとしている時だった。電話で母の緊張した声を聞いた私は、父のいつもの無理を押しての働きぶりから、覚悟はしていたものの、何か道を歩いていて突然壁にぶつかったような、重い感触があった。

その日はクリスマス・イヴで、東京でもこの冬初めての雪が散らつく寒い日だった。
上野から夜行列車に乗り、翌朝病院に駆けつけた時には、父は院長室に備えられたベッドに横になって眠っていた。体の上に掛けられた、タオルケットの端からはみ出しているまるっこい白い脚が、まるで子供のようで何か胸につまる思いがした。体のあちこちにコードがつけられ、点滴の液が一滴ずつ静かに落ちていた。
倒れたのは、心筋梗塞よるものだった。その方はなんとかおさまったけれども、急性腎不全を起こしているということだった。倒れた時、部屋には誰もいず、苦しい中でダイヤルを廻したらしい。呼び出された婦長さんは、突然のことで、てっきり何か叱責を受けるものと思ったという話だった。後は病院の医師達の総力をあげて、なんとか心臓の方は山を越えたらしい。「地域の住民のために、最高の医療を最低の料金で」という、今どき珍しいスローガンを掲げた父ではあったが、その最高の医療で自分が助かったと、目が覚めた時に言ったという。
心臓の発作で倒れた時の苦しみはひどかったらしい。腕時計の表面のガラスの傷や、折れ曲がったネクタイピンの金具などに、まざまざと、その様子がうかがわれた。心臓の痛みと、すい臓の痛み、この二つが人間の痛みの中で、死を思わさせる程の痛みであることを後に聞いた。そんな状態にありながらも、「迷惑をかけてすまない」と私に言う父の顔を、まじまじとみつめてしまった。

その後、どうしても尿が出ず、秋田大学の附属病院にある、ICUという二十四時間完全看護の施設へ運ばれた。そこでまる五日間、選り抜きの医師と看護婦による現代医学の最高水準の治療がほどこされたが、父の生命力もやはり病魔には勝てなかった。病名は解離性大動脈瘤というもので、身体の中の血管が裂けていくものであった。それが原因で、心筋梗塞、急性腎不全、その他の症状があらわれたらしい。死後の解剖の結果、それまで生きていた方が不思議なくらいで、手のほどこしようがないほどであったらしい。最後の時には苦しまずに、心臓がぱたりと止まったそうである。

父は、仕事を第一にした人であった。幼い頃から、そういう生活に慣れていたせいか、夕飯を家族一緒に食べるということがたまにあると、今日は一体何があるのだろうと、子供心に不思議に思ったほどである。朝は、どんなに前日が遅くとも、必ず出勤時間には登院したし、病院の仕事が終わった後も、必ず院長室で自分の勉強をして、帰って来るのは私達が眠ってからだった。夕飯は、いつも母が院長室へ弁当を届けていた。

病院の経営には、やはり医師としてだけでなく、つきあいの才能もまた必要であった。夜遅く、もしくは、朝まで酒を飲んで来る時も度々で、そんなとき、母が、身体のことを心配して、少し控えた方がいいのではと言うと、父は「酒を飲むのだって仕事だ、命賭けだ」と言っていたのを覚えている。他の人に酒をすすめられて、一度も断ったことのない人であった。

中途半端なことは嫌いで、どんなことをするのにも、極限まで自分をつきつめなければ納得のいかない人であった。それが彼の寿命を一刻一刻けずりとっていたことは確かだが、そのようにしか彼の生き方はなかったようにも思う。彼の性格には、いつも何かに向かって燃えていなければ気がすまないところがあった。何か精神というか、得体の知れないものが、彼の身体の中で暴風のように吹き荒れ、身体という囲いを飛び抜けて外へ出よう出ようとしているような感じがあった。父自身はそのことをデモーニッシュなものと呼んでいた。医学者でありながら、彼は、精神的なもの、非合理なものを決して軽んぜず、むしろそれらの中にこそ、人間の生命力、生きることがあると固く信じて疑わない人であった。それこそ、彼のいう本当の意味でのヒューマニズムであったのではないだろうかと思う。

父の死後、院長室の整理をしていて、背広のどの胸ポケットからも、かさかさと音がして、その中に小さなオレンジ色の、心臓のための錠剤が入っていたのをみつけた。

今、このアマゾンの視察記を発刊するにあたって、二度日の出発の時、羽田の国際線の塔乗用の通路に立ち止まって、見送りの私達を振り返り、丁寧に帽子をとって挨拶をした父の姿が日に浮ぶ。あの時父は、自分の中にあるひとつの夢に賭けていたのだと思う。しかも、安易なミニチュアの夢ではなく、広大なアマゾンという舞台を背景にして──。

父が生前御世話になった方々、それに、このアマゾンの視察記を出版するにあたって、協力を惜しまずに、快く手を貸して下さった方々に、父にかわって深く御礼申し上げたいと思う。 (1977年1月27日)


          ワイングラス


少しは、供養になったかな。
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