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2008年09月 Archive

つばな会書展(筒井敬玉、玉井敬楚)

  • Posted by: 和泉 昇
  • 2008-09-26 Fri 10:06:00
  • 未分類
■東京近辺の方への速報
玉井敬楚主宰「つばな会書展」

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なかなか時間が取れず、アップするのが遅れて申し訳ないのだが、
秋の一日、上の写真のような「書の世界」に浸ってみたい方は、是非。

銀座かねまつホール5階(銀座6丁目松坂屋の向かい、靴屋さんのビルです)
中央区銀座6-9-9 TEL.03-3572-6285
http://www.ginza-kanematsu.co.jp/ginza/
9月28日の日曜日まで(11時から18時、28日は16時終了)。
入場無料。

主宰の玉井敬楚氏の二人の師(筒井敬玉、筒井扇玉)とのご縁で、
僅かながら協力をさせて戴いている。
たぶん、本日26日(金)と明日27日(土)夕方4時過ぎには、私も会場にいると思う。


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暇さえあれば書いていた、書いてさえいれば楽しそうだった。
                             和泉 昇


 「暇さえあれば書いていた、書いてさえいれば楽しそうだった」。
 七月十五日から二十日まで東京セントラルアネックスで開催された筒井敬玉遺墨展の挨拶に遺族の筒井邦子は、このように書いている。
 朝日現代二十人展の作家であり、毎日書道展文部大臣賞受賞者であった敬玉は、それ以前に一人の真摯な書作家であった。
 その言葉を裏打するかのように、会場には展覧会用の大きな作品の他に、万葉集二十巻、古今和歌集二十三巻、三十六人家集四十巻を始め、土佐日記、奥の細道など、机上で日常に書いた作品が、惜しげもなく展覧された。
 しかも日替わりで鑑賞の個所が変わるという贅沢さでもあった。
 師・飯島春敬の死。その本葬の翌日の敬玉の死。「わたしが死んだら遺墨展やってね」という故人の遺志を継ぎ結成された遺墨展実行委員会。その長である筒井扇玉の急逝。大方の出品作の選定は済んでいたとはいうものの、遺墨展には大変な痛手であった。
 その後を支えたのは、古い時代に飯島春敬に就いていた兼重和子であった。敬玉は兼重の腕を早くから買い、何で作家として立たぬのかとしきりに目を掛けていた。この兼重の協力を得て、遺墨展は開催されることが出来たという。
 作品が、作品のみの力が、人の眼に働きかけ、人を呼び、開催させる力を作った。
 「どんな分野であろうと、どんな種類のものであろうと、いいものは、いい。その他のことは項末のことである」とある雑誌に書いた私の当たり前の文を読んだ敬玉が「貴方、なかなか良いこと書くわね。そうなのよね」と息子のような歳の私を摑まえてしきりに頷き、話しかけてくれたことが思い出される。 
 敬玉は私の文などより、ずっと深く重い所で自分のこと、「書」のことを考えていたのだと思う。
 会派を越え、分野をも越え会期中六日間には、三千人以上の観客が会場を埋めた。一人の観客の滞在時間も実に長いものであった。
 この「昭和の古典」とも思われる巻子類、何とか何処かで一括して保管し、次代の若い眼のために、何時の日にかまた、是非展観の機会を持たせられないものだろうか。 

平成9年(1997年)9月1日発行「新美術新聞」


               ワイングラス


もう11年も前に書いた希望が、まだ果たせずにいる。
かわりに、この玉井氏主宰の「つばな会書展」会場に、
「つばな会」の方たちの作品と一緒に、筒井敬玉の小品が4点飾られている。
「書」や、日本の文化に興味のある方に見て戴けたら嬉しい。


               ワイングラス


もしも、会場にいらっしゃられるなら「和泉」を呼んで下さい。
お目にかかれると思います。

ラテンの風(SAYAKA 02)

  • Posted by: 和泉 昇
  • 2008-09-23 Tue 02:00:00
  • 未分類
SAYAKA の周りには、いつもラテン的な自由な風が吹いている気がする。
昨年の春、彼女が率いる CHAKALA のコンサートに協力した時の経緯も、
全くラテン的であった。
SAYAKA のライブは、何度も聴かせて貰ってはいたが、
当時は昼の勤めもあり、なかなか自分で企画するまでには到らなかった。
そんな頃、赤坂で、ドラマーの村上ポンタさんが参加してくれたライブの時に、
出会ったのが、オフィスMの安藤さんだった。
彼女が、展覧会や音楽会の企画をする人だとは、初めは全く知らなかった。


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  オフィスMの安藤さん

SAYAKA のライブでは、最後には皆が踊り出すのが常だったが、
初めての聴衆は、戸惑ってなかなか踊り出せない。
少しずつ踊り始める人数が増えても、安藤さんはなかなか立てずにいた。
そんな様子をみて「踊りましょうよ」と引っ張り出したのが、私だった。
安藤さんもまた「華」のある人である。
彼女の仕事を聞いて、すぐに SAYAKA に紹介。
その頃の私は、すでに SAYAKA の御両親とも仲良しになっていた。
安藤さんも、さすがの人である。
あっという間に、ライブの企画を立ててくれた。
私は協力を約束した。


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そうやって開催されたのが、南青山マンダラでのライブだった。
Editorial Airplane の名前で協力することになった。
この名前の由来は、またまた後で。


               ワイングラス


新たに打ち直すのは大変なので、SAYAKA の経歴は本人が作ったそのままで載せる。
下の写真は、南青山マンダラのライブで撮ったもの。


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★SAYAKA (katsuki sayaka)Biography
音楽家の両親のもとに生まれ、6歳よりヴァイオリンを始める。'95年全日本学生音楽コンクール入選。'96年桐朋学園大学入学。'01年 キューバ留学中、ハバナのナポレオン美術館にてソロコンサートを催す。師匠のLazaro.D.Gonzalesによるプロデュースでキューバの国宝級バンド「オルケスタ・アラゴン」のメンバーと共演を果たす。翌年、'00年度アカデミー賞ノミネート、ドキュメンタリー映画「ブエナビスタ・ソシアル・クラブ」の出演者Eliadez Ochoa氏(gt)に招待を受け、Sones de Orienteのメンバーとして国際ソン・フェスティバルに参加し、メモリアルCDに2曲収録、キューバ国営新聞、テレビにて高く評価される。 '03年 NYにて、ディジー・ガレスピーからサンタナと共演の幅が広いグラミー賞受賞アーティストHoracio El Negro Hernandez(dr)とRobby Ameen(dr)のユニットに参加。 CD「Onto The Street」2曲収録。その後のブルーノート東京公演に3日間飛び入り参加し、Dave Valentin(fl)らと共演する。 '04年より世界的に活躍するキーボード奏者Yanniの2004-2005ツアーにソリストとしてアジア人初の大抜擢を受け、NYラジオシティーホールをはじめ、世界約50カ所でのコンサートに参加。メキシコの新聞やアメリカ、カナダの音楽誌、全米のテレビ番組で「The very new violinist!」と放送され、海外マスコミの注目を集めた。同年キューバにて日本キューバ文化交流コンサートに出演、キューバの歌姫Omara Portuondoと共演。 '04年 BS朝日ドキュメンタリー番組、本上まなみ主演「みどりの島のはなし」に、本上まなみを案内するキューバのナビゲーターとして出演。 '06年 夏に「Yanni Live! The concert Event」CD・DVDが全世界で発売。同年11月、自己グループ「CHAKALA」(チャカラ)CDデビュー。 '08年 広告写真家の巨匠・繰上和美初監督作品:映画「ゼラチンシルバーLOVE」にヴァイオリニスト役で出演。同映画にオリジナルサントラ「So-la」「音につづけ」他、全4曲を提供。現在、日本では自己グループ「CHAKALA」(キューバ系ダンスバンド)の活動の他、映画やコマーシャルのサントラ・作曲・アレンジ・クラシックからジャズ・フラメンコ・ポップスまで幅広く演奏活動する。これまでに矢野誠、高橋ゲタ夫、大儀見元、小野リサ、寿永アリサ、大口純一郎、南佳孝、村上“ポンタ“秀一・Nino Josele(spain)・Italuba(cuba)など様々なアーティストと共演または収録する。ヴァイオリンを石井志都子、Lazaro D.Gonzales(Orq.Aragon)各氏に師事。


               ワイングラス


経歴の中で、新しく楽しみなのは、彼女が映画に出ることだ。
といっても役者をやる訳ではなく、ヴァイオリン奏者として出るらしい。
そのまんまかい(笑)。でも彼女自身が弾く、彼女の曲が流れるのだ。
映画のタイトルは「ゼラチン・シルバー・LOVE」。


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映画『ゼラチンシルバーLOVE』
http://cinematoday.jp/page/N0012960

監督は写真の世界では大御所の繰上和美さん。
出演者は、宮沢りえ、永瀬正敏、役所広司、天海祐希といった豪華な顔ぶれで、
音楽は、これまた井上陽水さん。
りえちゃんが、殺人者の役をやるという。
きっと話題を呼ぶ映画になるだろう。
公開は来年の予定だが、これを機会にまた彼女の音楽が
たくさんの人に聞いてもらえるようになるといいなぁと思っている。
この映画の話の発端も、繰上さんにSAYAKA がある Bar で会ったからという。
先ほどの村上ポンタさんとも、会ったのは Bar 。
とにかく、そういう風が彼女の周りを吹き抜けているのだ。
これが恐らく「ラテン」の風なのだろう。

「なにせうぞくすんで」の『閑吟集』から、
とうとう「ラテン」まで来てしまった(笑)。


               ワイングラス


昨夜に続き、Yanni での SAYAKA たちの演奏をもう一つ。
国境など感じられない「人間」の「音楽」がここにある。

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■Yanni World Dance
http://jp.youtube.com/watch?v=ACWdB7QX_F8&NR=1

「なにせうぞ くすんで……」(SAYAKA)

  • Posted by: 和泉 昇
  • 2008-09-15 Mon 05:20:00
  • 未分類
先日の夜、久しぶりに六本木のアルフィーへ出掛けた。
突然だったが、 jazz singer の akiko を誘ってみたら来られるというので、
共通の友人の SAYAKA の演奏を聴きに行ったのだった。


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先月の終わりに、
銀座スウィングで SAYAKA の演奏を聴き(この夜のことは、またあとで)、
抑えていた「音楽」が頭をもたげて来てしまったのかもしれない。
akiko と SAYAKA は、全く違うタイプだとは思うのだが、私にとっては共通点がある。
その共通点は、実に簡単。
ふたりとも、ミュージシャンとして不可欠の「華」がある。

ハローワークだとか、校正だとか、「生活」のために必要なことばかりが続き、
頭の中が、少々「くすんで」来て「華」が欲しくなったのかもしれない。

その夜はいつもとはちょっと趣向を変え、フラメンコの曲を中心にしながらも、
相変わらず多彩で楽しい南米の「音楽」を堪能させてもらった。

終演後は、akiko & SAYAKA 、それに、
何とか病気から快復して食べられるようになった
実に性格の明るい SAYAKA の母上、
アルフィーのオーナー容子さん、
サルサの踊りが抜群に上手い SAYAKA の友人「バジさん」、
昔アルフィーでアルバイトをしたこともあるという、
役者の平山広行君も何故か合流して、中目黒のイタリアンの店へ流れた。


               ワイングラス


「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
閑吟集の一節が、このところ、いつも頭の中に響いている。

自分で言うのも可笑しいが、35歳くらいまでは、実に内面的でストイック。
「生真面目」な男だった、と思う。
言葉を変えると、付き合い憎い奴だったかも知れない。

それがある時から「お祭り好き」になった。
たぶん「死」というものを意識するようになり、
社会的な「価値」というものが希薄に感じられるようになってからだ。

直線的なものから、曲線的なものへの興味。
ラテン的なものへの興味もその頃から。
実に大雑把かも知れないけれど、それまでフランスは好きだったが、イタリアは嫌いだった。
「いいもの」という意識から「好きなもの」という意識への移行も、その頃からだった。

そのうちに、初めて会った人間と即座に友達になることも覚えた。
それまでの自分には、考えられないことだった。
たぶん、楽しむための「勘」が働くようになったのだ。

SAYAKA とも、そんな出会いだった。
ある絵画展会場でのライヴの時、
キューバ音楽を violin で演奏する彼女の「音楽」を聴き、
即座に何かが感じられた。
演奏後、絵描きたちと飯を喰い、その後はアイリッシュ・バーへ飲みに。

「ねぇ、ここで violin 弾こうよ」
そのバーの庭で、初めて会ったばかりの彼女にそう提案した。
「えっ」
一瞬、戸惑った表情が浮かんだが、
「やろうか」
という答えが返って来た。

私の言葉を失礼とは取らずに、彼女なら、
きっと OK してくれるだろうと、直感的に感じていたのだった。


               ワイングラス


akiko や SAYAKA については、少しずつ書いていくつもりだが、
長くなるので、今日は、ここまで。

ただ、 SAYAKA がちらりと映っている動画を、ひとつだけ紹介しておこう。
「勘」のいい人には、これだけで何かが伝わるような気もするので。


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■SAYAKA の動画
Horacio 'El Negro' Hernandez & ITALUBA Backstage
http://jp.youtube.com/watch?v=lU_Ag4GQ1Bo

『源氏物語』私家版覚書(E.G.サイデンステッカー)

                                             
 
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(墨田川の花火)



『源氏物語』上野榮子訳
私家版・覚書               和泉 昇                  


「僕は、日本も、日本人も好きじゃありません!」
いきなり、大声で怒鳴られた。
怒鳴った声の主は、エドワード・G・サイデンステッカー氏。
怒鳴られたのは、私。
二十五年ほど前、初めて彼にお目に掛かった時の「第一声」だった。
たまたま知り合いになった木版画家・福田裕氏が、サイデンステッカー氏の秘書役をやっていた縁で誘われ、墨田川の花火大会へ出かけた時だった。 

 
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(E.G.サイデンステッカー氏 2005年撮影)


川端康成、谷崎潤一郎、永井荷風などの小説を英訳し、『源氏物語』全巻の英訳を完成させて世界に広めたサイデンステッカー氏のことを考え、てっきり彼は、日本が好きだからなのだろうと思い、
「サイデンさん(皆もそう呼んでいたので)は、日本のどんなところがお好きなのですか?」
と、尋ねた時のことだった。
「僕は、昔の日本人が好きです。
 美意識も、生き方も。
 今の日本では、ありません」
彼が静かに話し始めるのを聴いて納得し、やっと、ほっとして落着くことが出来た。
何か失礼な事を言ってしまったのかと思い、びっくりしてしまったのだ。

その日の花火はとても美しく、終わった後も、サイデンさんが馴染みの居酒屋へ連れて行って下さり、気さくに楽しいお話を沢山聴かせて戴いた。
サイデンさんの怒鳴り声と共に、「花火」が、現場でしか感じることの出来ない、腹の底に響く深い「音」でもあることを知ったのも、その時だった。

いきなりサイデンステッカー氏のことを書いたのは、この時の彼との出会いの「縁」が、今回の上野榮子様の『源氏物語』全巻口語訳の仕事を引き受ける最初の伏線だったように思うからだ。

この本が出来上がるまでには、沢山の「縁」の繋がりがあったように思う。
覚え書きとして書いておきたい。

話を最初に私に持ち込んだのは、高校時代の友人で作家の鳴海風君だった。彼は会社勤めをしながら、江戸時代の数学「和算」をテーマに歴史小説を書いていて『円周率を計算した男』で第十六回の「歴史文学賞」も受賞している。
彼が「ちょっと相談があるのだけれど」と、話し始めたのが、この『源氏物語』だった。鳴海君は何冊かの本を出している作家であるだけでなく、勤め人であること、またテーマが異色であることなどで、講演も引き受けていた。
そんな縁で知り合いになった数学者から、母の本を出版したいのだけれどもと相談を受け、私に繋いでくれたのだった。
その数学者が、京都大学の大学院で教鞭をとり、一般社会への数学の普及のために「日本数学協会」を設立した上野健爾先生だった。
数学者と聞いていささか尻込みしたが、とにかくお会いしてお話を伺うことに。
お会いしてみると、実に教養豊かな方で、私の考えていた数学者のイメージとは、全くかけ離れていた。若い頃にはチェロを弾かれていたり、岩波新書で国語学者の大野晋氏との共著『学力があぶない』という本を書かれたりもしていて、とても若々しく行動的な方だった。
お話では、いわゆる作家ではない主婦が書いた本を、一般の書店で売るのは難しいかも知れないので、自費出版にしたい。けれども、出来るだけみすぼらしくない立派な本にしたい。ということだった。お話を伺っているうちに、自分の中で、この本を作らせて戴きたい気持がどんどんと膨らんで来るのが感じられた。
五十歳を過ぎた頃から、職業とか肩書きとか、プロとかアマチュアとか、そういうものの比重がどんどん意識の中で薄れ、人間は、この世に生まれ、いずれ死んで行く「はかない」生き物だという気持が大きくなって来ていた。

『源氏物語』は、その気分にぴったりの本だった。
しかし、いつも読みかけては途中まで。全巻を読み通したことはなかった。この仕事に関われば、必ず最後まで読み通すことになる。個人的には、そんな甘い考えもあった。
自分からお願いをして、なんとか訳者の上野榮子氏に会わせて戴くことにした。


              
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(左から、訳者・榮子氏、夫の佑爾氏、数学者の健爾氏)



日野のお宅は、ゆったりとして、時間の流れ方が違っていた。
きちんと手入れをされた庭には雀たちが遊び、榮子氏が分け与えた餌をついばんでいた。
ご本人が亡くなる少し前に作らせて戴いた『日本の美・その夢と祈り』で、詩人の宗左近氏が書かれた「人間と雀は、友達である。まさに宇宙の」という「まえがき」の一節も頭を掠めた。
これほどのお仕事をなされた榮子氏は、生真面目で神経質な方なのかなと思っていたのだが、とても穏やかでお茶目、若い頃にはやっていた歌なども、きさくに歌って下さるような楽しい方だった。しかし一方で、何気ないお話の中に突然諳んじている漢詩が出て来たりして、思わず気持を引き締めたりもした。
御主人で発行者の、佑爾様にもお会いした。
高齢にも関わらず、背筋のきちんと伸びた佇まいと、明確な話し振り。
特に、そのよく通る声には驚いた。囲碁と謡曲をたしなまれていると伺う。
お二人と、健爾先生とのお話のやりとりを伺っているうちに、どうしても、この本を作らせて戴きたい気持が抑えられなくなっていた。
ここには、あのサイデンステッカーさんが話していた、古き良き「日本」が、しっかりと存在していたのだった。

この『源氏物語』口語訳は、実に足かけ十八年もの持続した時間が費やされていること。しかもそれは、訳者の榮子様が、お母様を看病し続けながらのお仕事であったこと。また看病をなされている間、御主人の佑爾様は、ずっと文句のひとつも言わずに一人暮らしを続けられ、身の回りの事や食事の支度も全部御自分でこなされていたこと。自費出版には結構経費も掛かるのだが、健爾先生や、弟の眞資さんが、ぜひ出版をと勧められたこと。そのひとつひとつが、今の日本や日本人には失われてしまっていることのように思われたのだ。

幸い、佑爾様、榮子様にも何とか信頼して戴くことが出来て、いよいよ制作に取り掛かることになった。とは言え、実は私も会社勤めの身の上、作業は平日の仕事が終わってからの夜。あとは、休日を使うしかなかった。


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原稿用紙に万年筆で丁寧に書かれた文字の原稿は、実に四二〇〇枚。そのひとつひとつの章が、丁寧に表紙を付けられ、糊で貼り合わせ、紐で綴じられてある。これをばらばらにしなければ作業が進められない。
本冊の製本とともに、ばらばらにした原稿自体を、もう一度、和本の製本では定評のある山田大成堂の御兄弟、慶七様、繁様に頼み、和綴じの形で残すことを相談させて戴き、諒承を戴く。
山田様には、古いもので、こういう時のために取って置かれたという貴重な紙も提供して戴くことが出来た。
表紙の題箋の文字は、著者の榮子氏ご自身に書いて戴いたが、少し華やかな色も欲しくなり、その文字の下に、サイデンステッカーさんとも縁があり、仕事仲間で書家の「花伝房」手代木和さんに、印を彫ってもらい捺すことにした。
それを、五つの帙に収め、やっと心が落ち着くことになった。

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その様子を、これまた友人の写真家・中山豊氏に撮影してもらい、記録にとどめることも出来た。
「自費出版」は、いわゆる「経済原理」で動いている社会の基準では出来ないことを徹底的にやることだ。そんな反骨心のようなものが、心の中に芽生え初めていたようにも思う。昔の日本人ならきっと、そうしただろうと思ったのだ。

いよいよ、本冊の制作に取り掛かる。
日常の会社の仕事が終わってからの時間では、とても校正などの編集作業は無理である。健爾先生が、その部分を担当して下さることに。とは言え、健爾先生も大学での授業の他に、御自分の研究や著作、学会のお仕事、それに新しく立ち上げられた日本数学協会など、多忙を極める身の上。校正のみならず文章の推敲にまで協力して戴いた猪俣美郁子様という強力な助っ人を、京都でお願いして下さった。
また、こちら東京の制作側では、テキストの作成やレイアウトにも、話を聞いて協力を申し出てくれた優秀な編集者でもある村岡真理子さんには、大変な作業を強いることになった。現在では、コンピューターで普通に組むと、点や丸は、自動的にその行の一番下の部分や、頭から二字目に来るようにセットされるのだが、それだと、どうも見にくい。活字の時代のように文字が横に揃っている方が、見た感じも綺麗だし、読むときに、とても読みやすいのだ。彼女は、その無理な願いを理解し、校正の度に変わる点や丸の位置をその都度、コンピューター上の手作業で、調整してくれたのだった。大変に時間のかかる時代に逆行する作業でもあった。
だが、途中まで関わっていてくれた彼女が、突然、極度の腹痛という病に襲われる。
その時にはまた、テキストの打ち込みや、面倒な組み方に対する考えを理解する友人たちが、助けてくれた。アート・コーディネイターの増田洋子氏と、編集者の岩崎寛氏のお二人。途方に暮れていた時に、即座に協力を申し出て下さったおふたりには、感謝の申し上げようもない。


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本の大きさ、組み方などが決まってからは、いよいよその装丁を考えることに。友人の鳴海君からも装丁については、うるさく言われていた。自費出版の場合の装丁は一歩間違うと素人っぽくなり、それだけで見向きもされなくなることがあるからだ。
プロの画家に頼むことも考えたが、費用も嵩む。あれこれと悩んでいるうちに、一枚の料紙に出会った。全体は渋いのに金銀の箔が輝いている。これを利用しよう。金銀の両方を箔にすると、本の場合少し華美に過ぎてうるさくなる。結局、文字の黒と、金の部分を箔に。見返しの黒の紙は、榮子氏の「はじめに」の文章「人々は、喜びも、苦しみも、迷いも、闇もそのままに、何時の世にも六道輪廻に身をまかせて」の中の「闇」という言葉に触発され、現在の時点でもっとも「黒」の深い色が出る紙を選択した。かなり高価な紙なのだが、ここだけは一点豪華主義で押し通すことにした。おかげで、金の箔が引き立つことになったように思う。

ここまで書いて来て気づくのは、この本は、著者の榮子様から始まって、途中の制作は、ほとんど全ての人たちが、何か自分の仕事をしながら、本職の食べるための職業とは別の部分で、「心意気」のようなもので出来上がって来たということだ。勿論、その最終段階では、専門的にすべての印刷や、紙の手配、製本、箔押し、函の制作などの仕事を的確に取りまとめて下さった、ベテラン、山下忠一氏のお力添えがなければ、実現するものではなかったことは言うまでもない。


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(伊井春樹著『世界文学としての源氏物語』に、サイデンステッカー氏から戴いた榮子氏へのサイン)


こうして何とか作業を進めているときに、サイデンステッカー氏にそのお話を伝え、榮子様にサインを戴くことも出来た。
ところが昨年、彼は、大好きだった散歩中に転倒して頭部を強打。
それが原因で八月に、帰らぬ人になってしまった。

とうとう、完成した形を見て戴くことが出来なかった。
サイデンさん、あなたに、この本を見て欲しかった。
日本にも、まだ、こういうあなたの好きだった日本人がいることを。

二〇〇五年に、お話を伺ってから完成するまでに三年。
榮子様が執筆を始めてからは、何と三〇年という月日が経っている。

本冊が出来上がったところで、この話を聞きつけた「日本経済新聞」から取材があり、四月十八日の文化欄に榮子様の記事が掲載された。その記事を読んだ読者の方から「どこでその本は買えるのか。どうしたら読めるのか」と、一日で二〇〇件もの問い合わせがあったという。
そんなこともあり、同社の出版局が独立した「日本経済新聞出版社」が、この本を改めて一般の方が読めるように出版して下さることが決まった。
たぶん、秋には形になるだろう。

諸説はあるが、今年、二〇〇八年は、我が国の記録に『源氏物語』が明確に現れる年(『紫式部日記』寛弘五年・一〇〇八年十一月一日)から数え、実に一千年を迎えたことになる。
人間の「生きた時間」をたっぷりと吸い込んだ『源氏物語』は、それだけの重みを持っている「本」なのだと思う。


                    ワイングラス


2008年05月06日の日記に、
制作に当たらせて戴いた上野榮子訳『源氏物語』全八巻と、新聞記事のことを書いた。

http://noboruizumi.blog103.fc2.com/blog-entry-283.html


その経緯は後ほどと書きながら、また4ヶ月が経ってしまった。
函を作り、付録用の原稿をやっと書き上げたので、載せて置くことにする。

■日記周辺の「言葉の断片」(和泉)

アメリカで『源氏物語』は、
ずいぶん長い間「エロ本」として、
読まれておりました。
それでも、OKだと思っております。
エロスも人間の大切な一部ですから。

紫式部は、凄い女人ですね。
それに引き換え、
登場人物の男どもの、どうしようもなさ。
現代も全く変わらないので、溜息が出ます。
ただ、様々な解釈があって、
光源氏のことを、当時は皆で読みまわしながら、
笑い飛ばしていたのでは……。
というものもあり、そう思って読むと、
また違う一面も見えて来ます。
要するに、何でも崇め立てないで、
自分の眼で見ればいいんだ、ということですね。

「バーコードが装丁の美しさを壊す」というのは本当で、どうしても気になります。
煙草の「ハイライト」のパッケージなどで有名な和田誠さんは、 これを嫌って、
ISBN (International Standard Book Number 国際標準図書番号)の数字だけを記載しているようです。
今回の日本経済新聞出版社からの発行にあたっても、
バラ売りはせずに、セット販売のみになるので、
外函だけに記載してもらえるように、お願いをしました。
いずれにしても、「経済原理」最優先の「効率」ばかりに走る日本は、
もう昔の日本ではないような気がしております。

映画「ラストサムライ」での、
小雪の抑えた演技が忘れられずに、
何度か映画館に足を運びました。

日本人が持っていた「心」と「美意識」。
取り戻したいものです。

日本人の「心」は、まだあると思います。
ただ、状況がそれを許さなくなっている。
もしかしたら「国」などというものは、
一度きちんと滅んでしまった方がいいのかも知れません。

世界中の「国」という「概念」がなくなれば、
ひとは、もっと優しくなれるかも知れない。
という「妄想」です。
現実には、様々な困難がきっとあるでしょう。

「マッチ擦るつかのまの海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」
という寺山修司さんの歌の心情です。

植物は全く詳しくないのですが、
「紫式部」って、
葉っぱが鋸状になっているみたいですね。

『源氏物語』を書いた紫式部も、
結構、恐い「鋸」を持っていたように思います。

「日本の良さ」
ひとりひとりが大切にしようと思っても、
社会の「仕組み」や「構造」がびくともしないと、
なかなか大変だなぁ、と思います。
「数」の論理しか、まかり通らないのなら、
深く潜って一人で行動するしかありません。

ハワイと日本のイメージって、
ずいぶん違いますね。

サイデンさんは、長い間、
ハワイと日本、半分ずつ住んでいました。
いつも両方を感じていたのかなぁ。

昔の日本。
たとえば「明かり」は、畳の上の燭台から。
決して「上」からの光ではなく、
むしろ「下」から反射して「揺れる」淡い光だったと思います。
それだけでも、結構、
人間の「考え方」や「感じ方」が変わるのではと思われます。
言葉にも、かなり影響するでしょうね。


自立する傘(akiko 原美術館)

  • Posted by: 和泉 昇
  • 2008-09-01 Mon 02:39:00
  • 未分類
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古いものばかり「日記」に載せていると、
何だか気持まで爺くさくなるので、最近のものも、ちょっと。

先日、ジャズ・ヴォーカリストの akiko と原美術館の好意で招待して戴いた
同館の会員限定ガーデン・パーティ
「good-bye summer party at Hara Museum」に出かけて来た。

ハモンド・オルガンの金子雄太さんと akiko の40分ほどのデュオ。
本当は、庭で歌う予定だったらしいが、
雲行きが怪しいので、
庭に面したガラス張りの一室をステージとしてセットし、
外からでも見えるように工夫されていた。

「現代美術」に対する早くからの理解を示した原美術館で、
現代の若者にジャズの魅力を浸透させた akiko の歌を聴くのは、
一本、筋が通っていて、とても気持のいいものだった。
金子雄太さんのオルガン演奏も味があって楽しめた。

akiko は、アカペラで始めた一曲目の最初のフレーズで、
いきなり聴衆の心を、しっかりと摑んでしまっていた。
この「感覚」と「才能」、いったい何処からやって来たのだろう。
でも今日書くのは、 akiko や、彼女の歌についてではない。
それは、いずれまたの機会に(前にも、そう書いたかな)。


写真


彼女の最後の歌が終わった瞬間に、
まるで時間を計ったかのように、物凄い雷と大雨。
全く降り止む気配もなく、それぞれがタクシーを呼ぶ。
ところが、突然に降り出した雨に、
タクシー会社も忙しいらしく、なかなか電話が通じない。

美術館の中に戻り、売店で面白いものを見つける。
傘自身が、自力で立っている。
勝手に名付けて「自立する傘」。


  写真    写真
  

現在、無職になった自分へのプレゼントとして、
タクシー代よりも少しだけ高い買い物になったが、
その傘をさして、大雨の中を駅まで歩いた。

ちょっと、いい気分だった。


          ワイングラス


■jazz vocalist akiko の公式サイト
http://www.universal-music.co.jp/jazz/j_jazz/akiko/

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