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2008年08月 Archive
夢の形
- 2008-08-29 Fri 01:20:00
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前回の日記で『競馬手帳』のことを書いたが、その頃のことを書いた文章が出てきたので、載せて置く。作家の渡辺啓助氏が主宰していた『鴉』という大変に贅沢な同人誌に書かせて戴いたものである。


夢の形 和泉 昇
眼が覚めると、雪だった。
昨夜は十一時過ぎまで仕事があり、帰宅して平常心を取り戻すのが、一時過ぎ。こんな日が随分続いている。平常心を取り戻した途端に緊張が解けてしまったらしく、気がついた時は、洋服を着たままだった。
いつもだと、また、そのままの恰好で顔も洗わずに飛び出して行くことになる。
歯医者へ行く暇も、床屋へ行く暇もないというのは、すこぶる異常な毎日である。
夢を見る暇がない。
■
JR線・浜松町から羽田へのモノレールは、飛行場を利用する客のためにある。それは、永い間、何気なく私が思い込んでいたことだった。同じ「場」でも、競馬場へ出かける乗客も結構多いのだという事を知ったのは、去年の夏のことだった。
一九八六年七月、大井競馬場では、競馬関係者念願の日本で初めてのナイター競馬が開催されたのだった。
「ビールでも飲みながら、風に吹かれに行かないか?」
二、三か月ほど前から一緒に仕事をするようになった男に声をかけられ、ふと、その気になったのは、それが「夜」であり、「風に吹かれに」という言葉だったからかも知れない。その日は、新聞も買わずに、パドック(馬の下見所)で、馬の姿を見るだけで馬券を買った。何という名前の馬が勝ち、どんなレースだったのかもほとんど覚えていない。だが、漆黒の闇の中に作られた光の空間を、一直線にゴールに向かって疾走する馬の姿は、強く私の眼に焼き付いて離れなかった。馬券の方は、少しばかり負けたような気がする。
しかし、飛行場も、競馬場も、どちらも「遠いところ」へ行くための「場所」であると思い始めるまでには、やはり、丸一年ほどの時間が必要だった。
■
雪、であった。
今日は、仕事場へは出かけずに、持ち帰った少量の仕事をこなせば一日の責務を果たしたことになる。こんな日の雪は、有難い。空気が澄んで来るし、物の音が静かになる。
「シモーヌ、雪はお前のうなじのように白い」
そんな短詩を、昔読んだことがあったような気がする。誰の作品であったかを確認してみようと思ったりもするが、何しろ探し物をし始めたら、半日はつぶれる。頭の中の記憶は、もっと雑然としていて手がつけられぬ。
シモーヌという娘は、何という倖せ者であったろう……いや、本当は全くそんな娘は存在しなかったのだろうか……。
■
午前十時、ラジオのスイッチを入れる。
第五回中山競馬二日目、第一レースの発走時刻である。ここ一年間、土曜・日曜の競馬開催がある日は、競馬場にいるか、ラジオを聴いているかが習慣になっている。生活のための仕事で、どちらも無理の時は、夜になってから、必ず、テレフォンサービスで、結果だけでも聴くことにしている。何にでものめり込む性格で、危険なので、自宅にテレビは置いていない。一心不乱にテレビの画面にのめり込み、何が放送されているかにはほとんど関係なく、一日が終わってしまうからである。そのかわり、友人の家に行った時などは、もう、しがみついたまま離れず碌に話も聞かずにいるという嫌な性格である。
雪のため、朝早くから除雪作業が進められてはいるが、第一レースは、一時間ほど遅れる模様というアナウンスがあり、なんとなく安心してラジオを消し、持ち帰った仕事に取りかかることにする。
■
大井の競馬場へは、その後何度か足を運び、一人前に競馬の予想紙を買い、どんなレースの展開になるのかを考えるのも、楽しみの一つになって来た。
ある日、仕事が終わってから、やはりナイターの競馬に出かけ、二レースほど、自分の経済状態としては、少し多額の馬券を買った。仕事が思うようにはかどらずに、少々苛立っていたのかも知れない。二レースとも、狙った馬はことごとくはずれ、とうとう最終レース。薄くなってしまった財布の中身を眺めながら、やっぱりこんな日は来るんじゃなかった……と、なかばやけになりながら、最後のパドックヘ歩いて行った。すると、一頭、眼の両脇にピンポン玉を半分に割ったような、奇妙な器具をつけている馬がいる。「何だい、あれは?」と一緒に出かけた友人に尋ねると、「遮眼革(しゃがんかく)」と言う。気性の悪い馬や、気の小さい馬が、他の馬を気にしないようにつけるものらしい。新聞で馬の名前を確かめると「グレートハマキヨ」と書いてある。プロレスラーのような、思わず笑い出しそうでもある、強烈な馬名であった。何故か、奇妙な親しみを覚え、その馬に賭けてみる気になった。気性の悪い馬と言われるところが、妙に、私の気持を魅きつけた。パドックを廻っている時にも、横が見えないために、大きく首をまわして振り返る様子が、どことなくとぼけていて、苛立っていた私の気持をほぐしてくれた。
レースは、勢いよくゲートをポンと飛び出したグレートハマキヨが気持良さそうに駆け抜けて行く。どこまで逃げ粘れるのだろう。後続の馬たちは、どの辺で競りかけてくるのだろうと思って見ていたのだが、ハマキヨは、あれよあれよという間に、なんと一六○〇メートルを、そのまま逃げ切ってしまいそうだった。ゴール直前で、これまた人気薄のデュールマンナという馬が飛び込み、ハマキヨは二着だったが、連勝複式(一、二着両馬を当てる馬券で、着順はどちらでも良い)五七・四倍という高配当の払い戻しとなった。
私の財布は、その日の負け分と、それまでに負けていた分とを合わせても、まだ少しばかり、おつりが来るという好運に見舞われた。
サラブレッドは、生まれた年に一歳となり(当歳っ仔<とねっこ>とも言うが)、一年経つと、二歳。大体は、三歳でデビューする(注・2001年度からは、満年齢を採用)。そして、その年に勝ち上がった馬の中で、最も強い四歳の馬達を集めて開かれるレースが、ダービーである。「ダービー馬の馬主になるのは、一国の宰相になるよりも難しい」と言ったのは、競馬の本場、イギリスのチャーチルであったとも言われている。五歳の秋頃に馬が最も充実するというが、「グレートハマキヨ」はこの時七歳。それも、中央競馬ではなく、地方競馬のA~Dまでのランク付けの中の、Dランクのレースだった。
しかし、私にとっての「グレートハマキヨ」の名は、ダービー馬とも匹敵する馬名となって記憶に残ることと思われる。その後、ハマキヨは数回レースに出たようだが、このところ、その名前も見なくなった。機会を見つけて、どうしても調べてみようと思う気持が、日増しに膨んで来ている。
■
十一時ちょっと前、もう一度ラジオをつける。いつもとは、どうも様子が違うと思って聴いていると、雪が激しく、公正な競馬に支障をきたす恐れがあり、本日の中山競馬は中止という発表である。仮に、馬は走ることは出来ても、騎手のつけているゴーグルに雪がつき、視界がきかなくなる危険性や、ゴールでの決勝写真が正確に撮れないという事情等もあるのかも知れない。
朝早くから、いや、昨日の夜から楽しみにして駆けつけたファン達が、すごすごと雪の中を帰って行く姿を思うと、何か、物悲しいような気になって来るのも不思議である。たった一年しか経っていないのだが、競馬場へ出かけると必ずと言っていいほど、何人かは、人生の中で、競馬しか楽しみを見出すことが出来ないのではないかと思われるような人達を見かける。それが、いいとか悪いとか言うことではなく、どこかしら、寒い眼をしている。彼等にとって、競馬場は、唯一つの、自分を解放できる場所なのかもしれない。競馬をするために働き、そのためなら、少しぐらい、辛い嫌な思いをしても我慢することが出来る。少額のお金さえ持っていれば、誰にでも競馬は参加することが出来るし、たった一人でもいられる。自分さえ、道を踏みはずすことがなければ、誰にも文句を言われることもないし、賭けは、全ての人に平等に開かれている。
たまたま、うまく当てることが出来て、払い戻し窓口に立っていると、後ろの老人が、「今のレース、何が来たんだ?」と声をかけて来る。一着、二着の馬名を教えると「そうか、そうか、一点でしとめた。これしかないと思ってたんだ」と嬉しそうに持っていた馬券を見せびらかす。彼は、どの馬が来たのかを、本当はちゃんと知っていて、自分がそれを当てたのを、誰かに教えたいのだ。その馬券が百円の券一枚だったりすると、「おじいちゃん、天才だね!」などと、思わず声をかけたくなって来たりもする。一日、三千円もあれば、充分に楽しむことも出来るのである。
そうかと思うと、百万くらいの札束を、二つ、三つ、無造作にコートのポケットにねじ込んで、一言も話さずに足早に競馬場を立去る者もいる。
人間を眺めているだけでも、競馬場というところは、不思議な魅力を秘めている。
■
というところまで書き始め、あっという間に二週間が経ってしまった。その間、文字通り早朝から深夜まで、全くものを考えるゆとりのない生活が続く。かろうじて床屋へは出かけたが、歯痛は続いたままである。
次の週も雪になり、またもや競馬場は、朝の一・二レースだけで中止。二週連続中止というのは、戦後初めてのことらしい。関東地区の馬券売場の従業員に支払われる金額だけで十億円……とか。雪とお礼が、ダブルになって頭の中を舞い散って行く。相変わらずの、貧乏症。
■
日本の競馬は、中央競馬(国営・農林水産省の管轄)と、公営競馬(地方自治体の管轄)に分かれていて、言わば私の競馬体験は、裏口からの入門だったことになる。現在、中央の競馬場が全国で十か所、公営が二十七か所もあるが、地方の小さな競馬場は、経営の不振や地域住民の反対などもあり、閉鎖に追い込まれようとしている所も、かなりあるらしい。
私の競馬への熱の入れ方も、南関東の四つの公営競馬場めぐり(大井・浦和・川崎・船橋)のあとは、次第に中央競馬の方へ傾いていった。
ほとんど仕事のように毎週、土曜・日曜は競馬場へ出かけ、馬を眺め、どうしても行くことの出来ぬ時はラジオを聴き、眼の前でレースを見れぬ不幸を嘆いた。
そんな熱に浮かされていた時、私を競馬場に誘った男が、またもや耳許で、小さな声で囁いた。美しい悪魔の声である。
「一緒に馬を買わないか?」
馬を買う。
考えてもみないことであった。それに、一頭何千万もするサラブレッドを、どうして我々のような者が買えるのか。それが買えるという事を聞いて、また驚いた。共同馬主という仕組みがあるという。ある組織が、責任をもって中央競馬会の馬主として登録し、それをいくつもの口数に分けて、共同で馬を持てるというのである。何とも言えぬ奇妙な興奮にとりつかれ、とにかく、その会に入会し、二人で馬を選びに出かけることになった。共同馬主制度によるとしても、それでもまだ我々には負担が大きい。一口を二人で半分ずつ、分担することにした。共同馬主の、そのまた共同馬主という訳である。
■
千葉にある、その牧場に出かけたのは、入会を決めてから、数か月後だった。牧場が成田空港へ向かう経路の途中にあり、またもや飛行場との符合に、不思議な感覚が残った。自分の中で、少しずつではあるが、確実に、日常生活という地上を離れ始めている何かを感じていた。
電車を降り、そこからタクシーで牧場に辿り着いた時には、思わず声を上げそうであった。日本にも、こんな所が、あったのか。入口から建物までの距離が、とにかく長い。道の両側には、整然と樹木が植えられ、その外側は、馬の運動用なのか、芝がいっぱいに敷きつめられている。やっと辿り着いたところには、まるでヨーロッパの貴族が登場する映画の中の建物が立っていた。池には、白鳥や黒鳥が遊び、剥製だとばかり思っていた雉子が、突然動き出したりしたのにも驚かされた。
牧場の人達が温かく迎えてくださり、ほんの一部だけではあるが、我々のものになる筈の馬達を厩舎から引き出し、一頭ずつ説明してくれる。
あらかじめ郵送されたパンフレットの中に掲載された馬の写真を眺め、にわか勉強ながら血統を調べ、二、三頭に絞ってはいたのだが、実際の馬を見た瞬間に、私の中で、いっぺんで決めてしまう何かが動いた。この馬だ。私の理由は、簡単。実にいい顔をしている。友人の方は、さすがに競馬歴十年選手、血統や馬体を考え、黙り込んでいた。
しかし、実に不思議なことに、二人の結論は同じであった。小柄な馬であったが、きびきびとしていて、どことなく品格があるように思えた。人間も、動物の一種であり、やはりその顔を見れば、恐いことだが、大方の性恪や生活状況の見当はつく。馬も、やはり同じであろうと考えた訳である。
その日は即決せず、雨や雪が降ってもトレーニングが出来るという屋根つきの馬場、脚の骨格を鍛えるためという砂利を敷きつめた道など、牧場内の施設を見せて貰い、正に夢のような一日を過ごして、東京へ戻って来た。
■
同じ馬に人気が集中した時のために書き込む第二希望の欄を空白にしたまま、我々の選んだ馬がデビューしたのは、七月二十五日、新潟競馬場であった。その頃には、牧場の方で名前を付けてもらい、共同馬主の会名の下に、スイスの小さな町の名が付くことになった。シンボリブルックという。
人生で初めての経験である。何とか仕事の方のやりくりもつけ、新幹線に飛び乗り、当然新潟まで駆けつけることになった。
普段、競馬を見ている時とは、全く別の何かが、白分の中で動き始める感覚は、またまた新鮮な空気を私の頭の中に送り込んでくる。
競走馬は、およそ四~五〇〇キロ位の体重があり、それを、あのサラブレッド特有の細い四本の脚が支える。「ガラスの脚」と呼ばれる程、もろいものである。とにかく勝ってもらいたいという思いや、なんとか馬券を当てて儲けたいという気持も勿論あるのだが、もう、ただただ、無事にゴールまで走り抜けて欲しいという祈りのような気持が躰じゅうに溢れて来るのには、自分でも驚いてしまった。前の晩も、まるで自分の子供が初めて運動会に出る時というのは、こういう気持なのかと思われる程で、なかなか眠れなかった。
いよいよ、レース。
スタートは、まずまず出遅れずに飛び出し、向う正面あたりまではいい所を走っていたのだが、三コーナを回って直線に入り、他の馬達が次第にペースを上げて来るあたりでも、ブルックは、そのままの脚色(あしいろ)であった。それでも結果は四着。ブルックは最後まで楽しそうに走っているかのようであり、競走をしているという意識は、まだないかのように見えた。ゴールを駆け抜け、戻って来る時も、元気一杯であった。レース後の騎手のコメントでも、素質はかなりありそうだが、馬がまだ子供だということであった。
私は、勝てなかったけれど、何となくホッとして隣の友人を見ると、彼は緊張して、少々青い顔をしていた。じっとしたまま、ほとんど動かない。
「おい、大丈夫か?」
思わず声をかけると、やっと意識が戻ったかのようだった。彼は、当然自分達の馬が勝つものだと、信じて疑わなかったのだという。もしかして、負けることはあるかも知れないとも思ったが、負けてみて初めて、自分がどんなに勝つことを信じ切っていたのか、その思いの大きさに気付かされたと言う。
彼と私は、ほとんど同じ歳なのだが、彼の方が私よりずっと、純粋な面を残しているんだなと思って、ちょっと羨ましいような、妬ましいような気もした。そう言えば彼は、時々、少年のような、とても涼しい眼をしていることがあるな、とも思った。彼の方が少しばかり「遠いところ」まで行って来たのかも知れなかった。
その晩は、新潟の地酒を飲み、「のっぺ」という野菜や肉、海のもの等十数種を煮込んで冷やした絶品のつまみに恵まれ、落胆とは別に、快い疲れに身をゆだねた。
新潟の夜の街は、新しいものと古くからのものが見事に調和して、落着いた雰囲気を醸し出し、いっぺんで気に入ってしまった。
これは、競馬の恵みである。おそらく、観光旅行などというものには縁のなさそうな私にとって、競馬がなけば一生めぐり合えぬ街であったかも知れぬ。
■
その後、幸いに、我々の馬も無事に走り続け、何とか福島競馬場でのレースに勝つことが出来た。故障等の多い他の馬の中にあって、ブルックは、いたって元気であった。共同馬主の馬の中では、あの日我々が選んだブルックが最初の勝利を飾ったことになる。我々の眼も、まんざら捨てたものではないのかも知れぬ、などと自惚れてもみる。
■
「遠くへ行く」思いは、それだけにとどまらなかった。夢は、いったん地上を離れ始めると、どこまでも際限なく広がって行く。
競馬場へ通い始めるようになり、自分達のものと呼べる馬を持てるようになってから、次第に、賭博としての競馬だけでなく、競馬というものの周辺全部が、気になり始めて来た。馬は、どういう生態をしているのか。普段はどんな生活なのか。馬の世話をしている厩務員や、調教師、騎手の人達の日常は? 競馬は、いつ頃から、どうやって始まったのか? 本場イギリスの競馬と日本の競馬は、どう違うのか? 血統とは? 牧場とは?
競馬は、文学の上で、あるいは絵画や音楽の中で、どのように採り上げられているのか?
それまで、競馬にはほとんど縁のなかった私にとって、疑問は次から次へと湧き出し始め、とどまるところを知らなかった。
ただでさえ、眠る時間が惜しい毎日の中に、もうひとつの「興味」が吹き上げて来たのだから、もうたまらない。競馬や馬と名の付く本は、とにかく、片っぱしから買い集め、ほとんどトイレの中でさえ読みふけるようになった。それに毎週、土曜・日曜のレース検討も欠かせない。それまで、生まれてから一度も自分で買ったことのないスポーツ新聞も、毎朝、駅の売店で買い、電車の中で噛みつくように読み漁った。
全く新しい世界が、私の前に、突然に現われ出てしまったのだ。
ヘミングウェイが、競馬の予想屋になろうか、作家になろうか、真剣に悩んだり、ドストエフスキーがルーレットに、それこそ全人生を叩き込んだ時期があったりしたことも頭を掠めた。
幸か、不幸か、文学の方でも、宮本輝が競馬を題材にした『優駿』という小説で吉川英治文学賞をとったり、騎手夫人の吉永みち子が『気がつけば騎手の女房』という本で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したり、イギリスのエジンバラ公が競馬参観をしたいということで、皇太子夫妻が競馬場へ同行されたりと、競馬というもののイメージも、何か私が昔持っていたものとは、少しずつ違って来ている部分も出て来ているように思えた。
確かに、競馬には、様々な面があるようだ。
それは、まるで鏡のようであり、それに向かう人間の姿を、そのままに映し出してしまう。勿論、競馬に限らず、文章を書くことでも、絵を画くことでも、会社勤めの人の仕事でも、家庭の主婦の仕事でもそれは全く同じことなのだろう。
■
夢が作り出してしまった一冊の『競馬手帳』の話を書こうと思っていたのだが、時間切れとなってしまった。
競馬を始めて、たったの一年足らず。文化としての競馬などと、野暮ったいことは言わないが、せめて日常の現実とは別の場所での競馬を、一冊のコンパクトな手帳の中に、そっと保存して置ければという思いが、「風に吹かれに行かないか?」と私を誘った友人と共に作らせてしまった『競馬手帳』。
これは、又、別の機会にしようと思う。
今夜は、クリスマス。街は、それぞれの夢の形でいっぱいなのであろう。
せめて、静かに自分自身の夢を育てる時間が欲しいものである。 (1987.12.25)


「別の機会に……」と書きながら、あっという間の20年。
『競馬手帳』の発行日を、誕生日の12月25日にしていたことなども思い出した。
やっと自分に対しての約束を果たせたのかな、と思う。



夢の形 和泉 昇
眼が覚めると、雪だった。
昨夜は十一時過ぎまで仕事があり、帰宅して平常心を取り戻すのが、一時過ぎ。こんな日が随分続いている。平常心を取り戻した途端に緊張が解けてしまったらしく、気がついた時は、洋服を着たままだった。
いつもだと、また、そのままの恰好で顔も洗わずに飛び出して行くことになる。
歯医者へ行く暇も、床屋へ行く暇もないというのは、すこぶる異常な毎日である。
夢を見る暇がない。
■
JR線・浜松町から羽田へのモノレールは、飛行場を利用する客のためにある。それは、永い間、何気なく私が思い込んでいたことだった。同じ「場」でも、競馬場へ出かける乗客も結構多いのだという事を知ったのは、去年の夏のことだった。
一九八六年七月、大井競馬場では、競馬関係者念願の日本で初めてのナイター競馬が開催されたのだった。
「ビールでも飲みながら、風に吹かれに行かないか?」
二、三か月ほど前から一緒に仕事をするようになった男に声をかけられ、ふと、その気になったのは、それが「夜」であり、「風に吹かれに」という言葉だったからかも知れない。その日は、新聞も買わずに、パドック(馬の下見所)で、馬の姿を見るだけで馬券を買った。何という名前の馬が勝ち、どんなレースだったのかもほとんど覚えていない。だが、漆黒の闇の中に作られた光の空間を、一直線にゴールに向かって疾走する馬の姿は、強く私の眼に焼き付いて離れなかった。馬券の方は、少しばかり負けたような気がする。
しかし、飛行場も、競馬場も、どちらも「遠いところ」へ行くための「場所」であると思い始めるまでには、やはり、丸一年ほどの時間が必要だった。
■
雪、であった。
今日は、仕事場へは出かけずに、持ち帰った少量の仕事をこなせば一日の責務を果たしたことになる。こんな日の雪は、有難い。空気が澄んで来るし、物の音が静かになる。
「シモーヌ、雪はお前のうなじのように白い」
そんな短詩を、昔読んだことがあったような気がする。誰の作品であったかを確認してみようと思ったりもするが、何しろ探し物をし始めたら、半日はつぶれる。頭の中の記憶は、もっと雑然としていて手がつけられぬ。
シモーヌという娘は、何という倖せ者であったろう……いや、本当は全くそんな娘は存在しなかったのだろうか……。
■
午前十時、ラジオのスイッチを入れる。
第五回中山競馬二日目、第一レースの発走時刻である。ここ一年間、土曜・日曜の競馬開催がある日は、競馬場にいるか、ラジオを聴いているかが習慣になっている。生活のための仕事で、どちらも無理の時は、夜になってから、必ず、テレフォンサービスで、結果だけでも聴くことにしている。何にでものめり込む性格で、危険なので、自宅にテレビは置いていない。一心不乱にテレビの画面にのめり込み、何が放送されているかにはほとんど関係なく、一日が終わってしまうからである。そのかわり、友人の家に行った時などは、もう、しがみついたまま離れず碌に話も聞かずにいるという嫌な性格である。
雪のため、朝早くから除雪作業が進められてはいるが、第一レースは、一時間ほど遅れる模様というアナウンスがあり、なんとなく安心してラジオを消し、持ち帰った仕事に取りかかることにする。
■
大井の競馬場へは、その後何度か足を運び、一人前に競馬の予想紙を買い、どんなレースの展開になるのかを考えるのも、楽しみの一つになって来た。
ある日、仕事が終わってから、やはりナイターの競馬に出かけ、二レースほど、自分の経済状態としては、少し多額の馬券を買った。仕事が思うようにはかどらずに、少々苛立っていたのかも知れない。二レースとも、狙った馬はことごとくはずれ、とうとう最終レース。薄くなってしまった財布の中身を眺めながら、やっぱりこんな日は来るんじゃなかった……と、なかばやけになりながら、最後のパドックヘ歩いて行った。すると、一頭、眼の両脇にピンポン玉を半分に割ったような、奇妙な器具をつけている馬がいる。「何だい、あれは?」と一緒に出かけた友人に尋ねると、「遮眼革(しゃがんかく)」と言う。気性の悪い馬や、気の小さい馬が、他の馬を気にしないようにつけるものらしい。新聞で馬の名前を確かめると「グレートハマキヨ」と書いてある。プロレスラーのような、思わず笑い出しそうでもある、強烈な馬名であった。何故か、奇妙な親しみを覚え、その馬に賭けてみる気になった。気性の悪い馬と言われるところが、妙に、私の気持を魅きつけた。パドックを廻っている時にも、横が見えないために、大きく首をまわして振り返る様子が、どことなくとぼけていて、苛立っていた私の気持をほぐしてくれた。
レースは、勢いよくゲートをポンと飛び出したグレートハマキヨが気持良さそうに駆け抜けて行く。どこまで逃げ粘れるのだろう。後続の馬たちは、どの辺で競りかけてくるのだろうと思って見ていたのだが、ハマキヨは、あれよあれよという間に、なんと一六○〇メートルを、そのまま逃げ切ってしまいそうだった。ゴール直前で、これまた人気薄のデュールマンナという馬が飛び込み、ハマキヨは二着だったが、連勝複式(一、二着両馬を当てる馬券で、着順はどちらでも良い)五七・四倍という高配当の払い戻しとなった。
私の財布は、その日の負け分と、それまでに負けていた分とを合わせても、まだ少しばかり、おつりが来るという好運に見舞われた。
サラブレッドは、生まれた年に一歳となり(当歳っ仔<とねっこ>とも言うが)、一年経つと、二歳。大体は、三歳でデビューする(注・2001年度からは、満年齢を採用)。そして、その年に勝ち上がった馬の中で、最も強い四歳の馬達を集めて開かれるレースが、ダービーである。「ダービー馬の馬主になるのは、一国の宰相になるよりも難しい」と言ったのは、競馬の本場、イギリスのチャーチルであったとも言われている。五歳の秋頃に馬が最も充実するというが、「グレートハマキヨ」はこの時七歳。それも、中央競馬ではなく、地方競馬のA~Dまでのランク付けの中の、Dランクのレースだった。
しかし、私にとっての「グレートハマキヨ」の名は、ダービー馬とも匹敵する馬名となって記憶に残ることと思われる。その後、ハマキヨは数回レースに出たようだが、このところ、その名前も見なくなった。機会を見つけて、どうしても調べてみようと思う気持が、日増しに膨んで来ている。
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十一時ちょっと前、もう一度ラジオをつける。いつもとは、どうも様子が違うと思って聴いていると、雪が激しく、公正な競馬に支障をきたす恐れがあり、本日の中山競馬は中止という発表である。仮に、馬は走ることは出来ても、騎手のつけているゴーグルに雪がつき、視界がきかなくなる危険性や、ゴールでの決勝写真が正確に撮れないという事情等もあるのかも知れない。
朝早くから、いや、昨日の夜から楽しみにして駆けつけたファン達が、すごすごと雪の中を帰って行く姿を思うと、何か、物悲しいような気になって来るのも不思議である。たった一年しか経っていないのだが、競馬場へ出かけると必ずと言っていいほど、何人かは、人生の中で、競馬しか楽しみを見出すことが出来ないのではないかと思われるような人達を見かける。それが、いいとか悪いとか言うことではなく、どこかしら、寒い眼をしている。彼等にとって、競馬場は、唯一つの、自分を解放できる場所なのかもしれない。競馬をするために働き、そのためなら、少しぐらい、辛い嫌な思いをしても我慢することが出来る。少額のお金さえ持っていれば、誰にでも競馬は参加することが出来るし、たった一人でもいられる。自分さえ、道を踏みはずすことがなければ、誰にも文句を言われることもないし、賭けは、全ての人に平等に開かれている。
たまたま、うまく当てることが出来て、払い戻し窓口に立っていると、後ろの老人が、「今のレース、何が来たんだ?」と声をかけて来る。一着、二着の馬名を教えると「そうか、そうか、一点でしとめた。これしかないと思ってたんだ」と嬉しそうに持っていた馬券を見せびらかす。彼は、どの馬が来たのかを、本当はちゃんと知っていて、自分がそれを当てたのを、誰かに教えたいのだ。その馬券が百円の券一枚だったりすると、「おじいちゃん、天才だね!」などと、思わず声をかけたくなって来たりもする。一日、三千円もあれば、充分に楽しむことも出来るのである。
そうかと思うと、百万くらいの札束を、二つ、三つ、無造作にコートのポケットにねじ込んで、一言も話さずに足早に競馬場を立去る者もいる。
人間を眺めているだけでも、競馬場というところは、不思議な魅力を秘めている。
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というところまで書き始め、あっという間に二週間が経ってしまった。その間、文字通り早朝から深夜まで、全くものを考えるゆとりのない生活が続く。かろうじて床屋へは出かけたが、歯痛は続いたままである。
次の週も雪になり、またもや競馬場は、朝の一・二レースだけで中止。二週連続中止というのは、戦後初めてのことらしい。関東地区の馬券売場の従業員に支払われる金額だけで十億円……とか。雪とお礼が、ダブルになって頭の中を舞い散って行く。相変わらずの、貧乏症。
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日本の競馬は、中央競馬(国営・農林水産省の管轄)と、公営競馬(地方自治体の管轄)に分かれていて、言わば私の競馬体験は、裏口からの入門だったことになる。現在、中央の競馬場が全国で十か所、公営が二十七か所もあるが、地方の小さな競馬場は、経営の不振や地域住民の反対などもあり、閉鎖に追い込まれようとしている所も、かなりあるらしい。
私の競馬への熱の入れ方も、南関東の四つの公営競馬場めぐり(大井・浦和・川崎・船橋)のあとは、次第に中央競馬の方へ傾いていった。
ほとんど仕事のように毎週、土曜・日曜は競馬場へ出かけ、馬を眺め、どうしても行くことの出来ぬ時はラジオを聴き、眼の前でレースを見れぬ不幸を嘆いた。
そんな熱に浮かされていた時、私を競馬場に誘った男が、またもや耳許で、小さな声で囁いた。美しい悪魔の声である。
「一緒に馬を買わないか?」
馬を買う。
考えてもみないことであった。それに、一頭何千万もするサラブレッドを、どうして我々のような者が買えるのか。それが買えるという事を聞いて、また驚いた。共同馬主という仕組みがあるという。ある組織が、責任をもって中央競馬会の馬主として登録し、それをいくつもの口数に分けて、共同で馬を持てるというのである。何とも言えぬ奇妙な興奮にとりつかれ、とにかく、その会に入会し、二人で馬を選びに出かけることになった。共同馬主制度によるとしても、それでもまだ我々には負担が大きい。一口を二人で半分ずつ、分担することにした。共同馬主の、そのまた共同馬主という訳である。
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千葉にある、その牧場に出かけたのは、入会を決めてから、数か月後だった。牧場が成田空港へ向かう経路の途中にあり、またもや飛行場との符合に、不思議な感覚が残った。自分の中で、少しずつではあるが、確実に、日常生活という地上を離れ始めている何かを感じていた。
電車を降り、そこからタクシーで牧場に辿り着いた時には、思わず声を上げそうであった。日本にも、こんな所が、あったのか。入口から建物までの距離が、とにかく長い。道の両側には、整然と樹木が植えられ、その外側は、馬の運動用なのか、芝がいっぱいに敷きつめられている。やっと辿り着いたところには、まるでヨーロッパの貴族が登場する映画の中の建物が立っていた。池には、白鳥や黒鳥が遊び、剥製だとばかり思っていた雉子が、突然動き出したりしたのにも驚かされた。
牧場の人達が温かく迎えてくださり、ほんの一部だけではあるが、我々のものになる筈の馬達を厩舎から引き出し、一頭ずつ説明してくれる。
あらかじめ郵送されたパンフレットの中に掲載された馬の写真を眺め、にわか勉強ながら血統を調べ、二、三頭に絞ってはいたのだが、実際の馬を見た瞬間に、私の中で、いっぺんで決めてしまう何かが動いた。この馬だ。私の理由は、簡単。実にいい顔をしている。友人の方は、さすがに競馬歴十年選手、血統や馬体を考え、黙り込んでいた。
しかし、実に不思議なことに、二人の結論は同じであった。小柄な馬であったが、きびきびとしていて、どことなく品格があるように思えた。人間も、動物の一種であり、やはりその顔を見れば、恐いことだが、大方の性恪や生活状況の見当はつく。馬も、やはり同じであろうと考えた訳である。
その日は即決せず、雨や雪が降ってもトレーニングが出来るという屋根つきの馬場、脚の骨格を鍛えるためという砂利を敷きつめた道など、牧場内の施設を見せて貰い、正に夢のような一日を過ごして、東京へ戻って来た。
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同じ馬に人気が集中した時のために書き込む第二希望の欄を空白にしたまま、我々の選んだ馬がデビューしたのは、七月二十五日、新潟競馬場であった。その頃には、牧場の方で名前を付けてもらい、共同馬主の会名の下に、スイスの小さな町の名が付くことになった。シンボリブルックという。
人生で初めての経験である。何とか仕事の方のやりくりもつけ、新幹線に飛び乗り、当然新潟まで駆けつけることになった。
普段、競馬を見ている時とは、全く別の何かが、白分の中で動き始める感覚は、またまた新鮮な空気を私の頭の中に送り込んでくる。
競走馬は、およそ四~五〇〇キロ位の体重があり、それを、あのサラブレッド特有の細い四本の脚が支える。「ガラスの脚」と呼ばれる程、もろいものである。とにかく勝ってもらいたいという思いや、なんとか馬券を当てて儲けたいという気持も勿論あるのだが、もう、ただただ、無事にゴールまで走り抜けて欲しいという祈りのような気持が躰じゅうに溢れて来るのには、自分でも驚いてしまった。前の晩も、まるで自分の子供が初めて運動会に出る時というのは、こういう気持なのかと思われる程で、なかなか眠れなかった。
いよいよ、レース。
スタートは、まずまず出遅れずに飛び出し、向う正面あたりまではいい所を走っていたのだが、三コーナを回って直線に入り、他の馬達が次第にペースを上げて来るあたりでも、ブルックは、そのままの脚色(あしいろ)であった。それでも結果は四着。ブルックは最後まで楽しそうに走っているかのようであり、競走をしているという意識は、まだないかのように見えた。ゴールを駆け抜け、戻って来る時も、元気一杯であった。レース後の騎手のコメントでも、素質はかなりありそうだが、馬がまだ子供だということであった。
私は、勝てなかったけれど、何となくホッとして隣の友人を見ると、彼は緊張して、少々青い顔をしていた。じっとしたまま、ほとんど動かない。
「おい、大丈夫か?」
思わず声をかけると、やっと意識が戻ったかのようだった。彼は、当然自分達の馬が勝つものだと、信じて疑わなかったのだという。もしかして、負けることはあるかも知れないとも思ったが、負けてみて初めて、自分がどんなに勝つことを信じ切っていたのか、その思いの大きさに気付かされたと言う。
彼と私は、ほとんど同じ歳なのだが、彼の方が私よりずっと、純粋な面を残しているんだなと思って、ちょっと羨ましいような、妬ましいような気もした。そう言えば彼は、時々、少年のような、とても涼しい眼をしていることがあるな、とも思った。彼の方が少しばかり「遠いところ」まで行って来たのかも知れなかった。
その晩は、新潟の地酒を飲み、「のっぺ」という野菜や肉、海のもの等十数種を煮込んで冷やした絶品のつまみに恵まれ、落胆とは別に、快い疲れに身をゆだねた。
新潟の夜の街は、新しいものと古くからのものが見事に調和して、落着いた雰囲気を醸し出し、いっぺんで気に入ってしまった。
これは、競馬の恵みである。おそらく、観光旅行などというものには縁のなさそうな私にとって、競馬がなけば一生めぐり合えぬ街であったかも知れぬ。
■
その後、幸いに、我々の馬も無事に走り続け、何とか福島競馬場でのレースに勝つことが出来た。故障等の多い他の馬の中にあって、ブルックは、いたって元気であった。共同馬主の馬の中では、あの日我々が選んだブルックが最初の勝利を飾ったことになる。我々の眼も、まんざら捨てたものではないのかも知れぬ、などと自惚れてもみる。
■
「遠くへ行く」思いは、それだけにとどまらなかった。夢は、いったん地上を離れ始めると、どこまでも際限なく広がって行く。
競馬場へ通い始めるようになり、自分達のものと呼べる馬を持てるようになってから、次第に、賭博としての競馬だけでなく、競馬というものの周辺全部が、気になり始めて来た。馬は、どういう生態をしているのか。普段はどんな生活なのか。馬の世話をしている厩務員や、調教師、騎手の人達の日常は? 競馬は、いつ頃から、どうやって始まったのか? 本場イギリスの競馬と日本の競馬は、どう違うのか? 血統とは? 牧場とは?
競馬は、文学の上で、あるいは絵画や音楽の中で、どのように採り上げられているのか?
それまで、競馬にはほとんど縁のなかった私にとって、疑問は次から次へと湧き出し始め、とどまるところを知らなかった。
ただでさえ、眠る時間が惜しい毎日の中に、もうひとつの「興味」が吹き上げて来たのだから、もうたまらない。競馬や馬と名の付く本は、とにかく、片っぱしから買い集め、ほとんどトイレの中でさえ読みふけるようになった。それに毎週、土曜・日曜のレース検討も欠かせない。それまで、生まれてから一度も自分で買ったことのないスポーツ新聞も、毎朝、駅の売店で買い、電車の中で噛みつくように読み漁った。
全く新しい世界が、私の前に、突然に現われ出てしまったのだ。
ヘミングウェイが、競馬の予想屋になろうか、作家になろうか、真剣に悩んだり、ドストエフスキーがルーレットに、それこそ全人生を叩き込んだ時期があったりしたことも頭を掠めた。
幸か、不幸か、文学の方でも、宮本輝が競馬を題材にした『優駿』という小説で吉川英治文学賞をとったり、騎手夫人の吉永みち子が『気がつけば騎手の女房』という本で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したり、イギリスのエジンバラ公が競馬参観をしたいということで、皇太子夫妻が競馬場へ同行されたりと、競馬というもののイメージも、何か私が昔持っていたものとは、少しずつ違って来ている部分も出て来ているように思えた。
確かに、競馬には、様々な面があるようだ。
それは、まるで鏡のようであり、それに向かう人間の姿を、そのままに映し出してしまう。勿論、競馬に限らず、文章を書くことでも、絵を画くことでも、会社勤めの人の仕事でも、家庭の主婦の仕事でもそれは全く同じことなのだろう。
■
夢が作り出してしまった一冊の『競馬手帳』の話を書こうと思っていたのだが、時間切れとなってしまった。
競馬を始めて、たったの一年足らず。文化としての競馬などと、野暮ったいことは言わないが、せめて日常の現実とは別の場所での競馬を、一冊のコンパクトな手帳の中に、そっと保存して置ければという思いが、「風に吹かれに行かないか?」と私を誘った友人と共に作らせてしまった『競馬手帳』。
これは、又、別の機会にしようと思う。
今夜は、クリスマス。街は、それぞれの夢の形でいっぱいなのであろう。
せめて、静かに自分自身の夢を育てる時間が欲しいものである。 (1987.12.25)


「別の機会に……」と書きながら、あっという間の20年。
『競馬手帳』の発行日を、誕生日の12月25日にしていたことなども思い出した。
やっと自分に対しての約束を果たせたのかな、と思う。
『競馬手帳』
- 2008-08-27 Wed 00:22:00
- 未分類
「日記」は「記憶の整理箱」と前に書いたが、
整理して順序などを考えてからだと、いつになるかわからない。
煩雑だが、出て来た「物」を順次書いていくしかないだろう。

仕事仲間に「競馬」に誘われたのが縁で、
自分達の遊びのために『競馬手帳』というものを作ることになった。
1987年頃のことである。その前後の事情は、また別の機会に書く。

どうせ作るなら、ちゃんとした物をと思うと、どんどんエスカレートして行った。
競馬の開催日程や、過去のデータ、予想などは勿論のこと、
英国での「競馬」は貴族の遊び。文化的なコラムなども入れなくちゃ、と凝り始める。
結果、手前味噌ながら、なかなか満足出来るものに仕上った。
次には、せっかく作ったのだから「出来れば他の人達にも使ってもらおう」ということに。
知人の伝手(つて)を辿ってJRA(日本中央競馬会)と交渉したところ、
有難いことに全国の競馬場の売店に置いて貰えることになった。
1988年度版から1997年度版まで、JRA自体が発行して我々が止めるまで、
合計10冊の『競馬手帳』を作ったことになる。
もちろん、食えるほど儲かる訳ではないので、会社員を続けながらである。
しかし売り上げも少しずつ増え、結局「株式会社・競馬手帳社」という、
そのまんまの名前の会社を作ることにまでなった。

ある程度同じことをやっていると、人間は「新しく」遊びたくなる。
競馬関係図書の「書評欄」なども作ってはみたが、
今度は手帳の巻頭に、エッセイが欲しくなった。
競馬に詳しく、その上、文化にも精通している著者。
品を落としてはいけない。となると、なかなかに難しい。
あれこれ悩んでいる時に思い当たったのが、漫画家の黒鉄(くろがね)ヒロシ氏だった。
彼のことは以前から、ただの漫画家ではないと思っていた。
絵の見事さとともに、作品に深い「風刺と哲学」が感じられた。
おまけに彼は大の競馬ファンで、絵だけではなく、文章も抜群。
恐る恐る「手帳」を同封して、手紙を書く。
早速に戴いたお返事には「嬉しいです。2冊になりました」。
「えっ?」送ったのは1冊なのに?
黒鉄さんは、こちらが送る前に御自分が気に入り、売店で買って下さっていたのだった。
それで頂戴したのが、以下のエッセイ。
ギャンブル嫌いの方も、一度読んでみて下さいませ。

『闇の中のケンタウロス』 黒鉄ヒロシ
競馬場に限った話ではなくて、ギャンブルの執り行われる場所には、独特の空気が戦(そよ)いでいる。
「賭ける」行為の非日常の度は強い。
ヒトの精神を解放すると考えられる三役には、宗教と、社会的容認度は別にして、犯罪とドラッグとがある。
使い方によっては危険な、その匂いを、ギャンブルを嫌うヒト達は、日常的な平衡感覚ですかさず嗅ぎとって眉を顰める。
ギャンブル場の全てが非日常性が強い訳ではない。
意志と気分次第では、日常の社会となんら変化のない場所にしてしまうことも出来る。
ところがドッコイ、「賭けた」途端に、不思議の国の扉は開く。
他の目的も合わせ持って入国するのなら、ギャンブルの国の王は、客の希望する比率に合わせて、グーしてくれる。
パーになるのはお客の勝手。
扉の中の世界は通貨を別にして、日常生活での価値観は煙となる。
絶世の美女であろうが、天下の二枚目であろうが、ギャンブルの国では何の力にもならない。
貧富の差も、社会的地位も、学歴も、犯罪歴も、何もかもが関係がない。
ギャンブルの王は、平等に手抜きなしで付き合ってくれる。
日常なんぞはギャンブルの王はご存知ないのだから、余計なモノを引き摺ったところで意味がない。
いきおい、ギャンブルをするものはギャンブル場においては日常を忘れる。
他者の目を気にしたり、言動に気を取られたりする余裕もない。
区別や差別の入り込む余地のない場所である。
自分を見詰めることになる。
いつの間にか、ギャンブルの王も姿を消して、大宇宙の中に漂いながら、自分自身と格闘をしている。
凛とした空気のエレメントの一つは、他者に対する絶対的無関心である。
闘っている相手が自我であることを理解する。
もしかしたら、お釈迦様の云う「犀の角のごとく、ただ一人歩め」るようになれるかもしれない。

「競馬を文化に。ギャンブルを文化に」と遊んだ10年。
遊んだはずの10年、本当は人生修行だったのかも。
整理して順序などを考えてからだと、いつになるかわからない。
煩雑だが、出て来た「物」を順次書いていくしかないだろう。

仕事仲間に「競馬」に誘われたのが縁で、
自分達の遊びのために『競馬手帳』というものを作ることになった。
1987年頃のことである。その前後の事情は、また別の機会に書く。


どうせ作るなら、ちゃんとした物をと思うと、どんどんエスカレートして行った。
競馬の開催日程や、過去のデータ、予想などは勿論のこと、
英国での「競馬」は貴族の遊び。文化的なコラムなども入れなくちゃ、と凝り始める。
結果、手前味噌ながら、なかなか満足出来るものに仕上った。
次には、せっかく作ったのだから「出来れば他の人達にも使ってもらおう」ということに。
知人の伝手(つて)を辿ってJRA(日本中央競馬会)と交渉したところ、
有難いことに全国の競馬場の売店に置いて貰えることになった。
1988年度版から1997年度版まで、JRA自体が発行して我々が止めるまで、
合計10冊の『競馬手帳』を作ったことになる。
もちろん、食えるほど儲かる訳ではないので、会社員を続けながらである。
しかし売り上げも少しずつ増え、結局「株式会社・競馬手帳社」という、
そのまんまの名前の会社を作ることにまでなった。


ある程度同じことをやっていると、人間は「新しく」遊びたくなる。
競馬関係図書の「書評欄」なども作ってはみたが、
今度は手帳の巻頭に、エッセイが欲しくなった。
競馬に詳しく、その上、文化にも精通している著者。
品を落としてはいけない。となると、なかなかに難しい。
あれこれ悩んでいる時に思い当たったのが、漫画家の黒鉄(くろがね)ヒロシ氏だった。
彼のことは以前から、ただの漫画家ではないと思っていた。
絵の見事さとともに、作品に深い「風刺と哲学」が感じられた。
おまけに彼は大の競馬ファンで、絵だけではなく、文章も抜群。
恐る恐る「手帳」を同封して、手紙を書く。
早速に戴いたお返事には「嬉しいです。2冊になりました」。
「えっ?」送ったのは1冊なのに?
黒鉄さんは、こちらが送る前に御自分が気に入り、売店で買って下さっていたのだった。
それで頂戴したのが、以下のエッセイ。
ギャンブル嫌いの方も、一度読んでみて下さいませ。

『闇の中のケンタウロス』 黒鉄ヒロシ
競馬場に限った話ではなくて、ギャンブルの執り行われる場所には、独特の空気が戦(そよ)いでいる。
「賭ける」行為の非日常の度は強い。
ヒトの精神を解放すると考えられる三役には、宗教と、社会的容認度は別にして、犯罪とドラッグとがある。
使い方によっては危険な、その匂いを、ギャンブルを嫌うヒト達は、日常的な平衡感覚ですかさず嗅ぎとって眉を顰める。
ギャンブル場の全てが非日常性が強い訳ではない。
意志と気分次第では、日常の社会となんら変化のない場所にしてしまうことも出来る。
ところがドッコイ、「賭けた」途端に、不思議の国の扉は開く。
他の目的も合わせ持って入国するのなら、ギャンブルの国の王は、客の希望する比率に合わせて、グーしてくれる。
パーになるのはお客の勝手。
扉の中の世界は通貨を別にして、日常生活での価値観は煙となる。
絶世の美女であろうが、天下の二枚目であろうが、ギャンブルの国では何の力にもならない。
貧富の差も、社会的地位も、学歴も、犯罪歴も、何もかもが関係がない。
ギャンブルの王は、平等に手抜きなしで付き合ってくれる。
日常なんぞはギャンブルの王はご存知ないのだから、余計なモノを引き摺ったところで意味がない。
いきおい、ギャンブルをするものはギャンブル場においては日常を忘れる。
他者の目を気にしたり、言動に気を取られたりする余裕もない。
区別や差別の入り込む余地のない場所である。
自分を見詰めることになる。
いつの間にか、ギャンブルの王も姿を消して、大宇宙の中に漂いながら、自分自身と格闘をしている。
凛とした空気のエレメントの一つは、他者に対する絶対的無関心である。
闘っている相手が自我であることを理解する。
もしかしたら、お釈迦様の云う「犀の角のごとく、ただ一人歩め」るようになれるかもしれない。

「競馬を文化に。ギャンブルを文化に」と遊んだ10年。
遊んだはずの10年、本当は人生修行だったのかも。
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