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2008年05月 Archive

温さんのこと(及川道子)


W.W.W.展の記念冊子から、どうしても引用させて戴きたいものがある。
温さんの死後、女優の及川道子さんが書かれた文章である。

私が戴いた温さんのインバネスは、こんな物語をも吸い込んでいる筈だから。


渡辺さんに会う記
及川道子
 

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 空は紺碧に晴れて、そよ風にゆらぐ街路樹の柳の若葉が、涼しそうな陰影を鋪道に投げていた。
 初夏の銀座通りである。
 道子は母と弟の士郎と三人で、買物への帰りを新橋に向かって歩いていた。
 途中、ある額縁屋へ立寄って、美しいというよりも神々しさを思わせる山と川の絵
──夕陽が山の端の雲間からパッとさして、静かな川面にキラキラと金色に映え返っている──
を暫く眺めてから、再び鋪道に出て急ぎ足に新橋の方へ歩き始めた。
 「アッ!」
 道子は思わず声を立てると、その場に立ちすくんでしまった。
手にしていた荷物はバタバタと足許に転がり落ちた。
 コツ、コツ。
 向こうから渡辺さんが歩いて来る!
 山高をかぶって、片手にステッキを握り、いつものように首を心もち左へかしげたあの渡辺さんが!
 今では、もう此世にいない筈のあの渡辺さんが!
 道子はあまりのことに立ちすくんだまゝじっとその姿に見入った。
 が、次の瞬間、あの渡辺さんが生きていてくれたのだとわかると、
道子は嬉しくて嬉しくて思わず我を忘れて、その側に飛んで行き、胸深く顔をうずめて泣き崩れてしまった。
「もう、どこへも行かないでね。いえ、行こうたって離さないわ。これからは何でも云うことを聞くから、
そして誰よりもあなたを好きになってあげるから、どうかもうどこへも行かないでね」
 まるで子供が父親に甘えるように、
道子はわれながらいじらしい感情に胸をふるわせながら訴えるのだった。
 それまで、たゞ黙って道子の言葉に耳を傾けていた渡辺さんは、
つと優しく道子の手をとると、二人は何時のまにか元来た道の方へ歩き出していた。
 暫く行って──何処をどう通ったか、またそこがなんという町かハッキリわからなかったが
──間もなく二人は、何だか白く乾き切った広い広い大通りの傍に建っている家に着いた。
その家は入口からいきなり階段になっていて、二人はその二階へ上がって行った。
 「どこへも行かないでね、いつまでも道子の側にいてね」
と繰り返し繰り返し、たのみつゞけたが、
それに対して渡辺さんは一言も云わずに黙って道子の顔を見守っているだけだった。
 どの位二人はそうしていたろうか。
暫くして階下の入口の戸を誰かトントンと叩く音がしたので、
道子は急いで階段を下りて行って見ると、そこには不思議なことに、
これも今はもう亡くなられた筈の小山内先生がヌーッと立っていられるではないか──
 「渡辺君、迎えに来たよ」
 先生はそう云いながら、丁度そこへ下りて来た渡辺さんを両手で抱きかゝえるようにして出て行こうとされた。
道子は急に堪え難い悲しみに襲われて、
「先生、どうか渡辺さんを連れて行かないで下さい。お願いですから、お願いですから」
と眼に一杯涙をためながら渡辺さんにとりすがった。
 が、いよいよ先生に連れられて戸口を出ようとするとき
渡辺さんは追いすがる道子の方を静かに振り返って、
その寂しい青ざめた口元に微笑をうかべながら、始めて口を開いた。
 「ねえ、道ちゃん、恋愛は一生の仕事ではないよ。
この人生にはもっともっとなさなければならない仕事がある筈だ。
──道ちゃんには芸術の仕事が残されている。
今はそうした愛とか恋とかの感情に心を奪われている時ではなく、
お互いに芸術の道に精進すべき時だ。
そしていつか僕等がなすべき務めを果し静かな安息の日が訪れた時に、
きっと二人はまた会うことがあるだろうからね──」
 そう云ったかと思うと、先生と渡辺さんの姿は、
その広い真白な、果てもない一本の道を後をも振り返らずに次第次第に遠ざかって行った。
 そしてやがて、遙か地平線の彼方から湧き上って来た夕陽を浴びて
神々しいばかりに照り輝いている金色の雲の光の中へ
二人の姿は吸い込まれるように見えなくなってしまった。
 道子はそこに立ちつくしたまゝ、何かしら澄み切った寂蓼と感激とに胸をしめつけられて
「ええ、わかったわ、わかったわ」
と何度も何度もうなずきながら、
かすかに遠雷の音の響いて来る遠い雲の峰をいつまでも眺め入っていた。

 これは二三日前の夜、私がはっきり見た夢でございます。
今日たまたま編集者から、故渡辺温さんの思い出をもとめられましたので、
ともあれ先ずこの不思議な夢をそのまゝ記して見ました。
── 一九三四、一、七 ── 

(初出/雑誌『オアシス』昭和九年二月号)

★2008年 mixi 日記より

インバネス(谷崎・温・啓助)



写真
                                        
                                                                                                             W.W.W.展 資料展示の様子


 先日のW.W.W.展オープニングは、入りきれないほどの人で賑わった。


               写真
                        若き日の啓助氏

                  写真
                         渡辺温氏

                  写真
                  出合った頃の面影を残す濟氏の写真


 来場の客は、基本的には文学畑の人だが、
一般の方のほかにも、画家、写真家、音楽家など、
時代、ジャンルを超えて三人の人間に興味を持たれている方たちも多かった。
不思議な展覧会である。
画廊のオーナーの渡辺東さんが、この三人の長兄・啓助氏の娘であるからとは言え、
なかなか出来ぬ企画だと思う。
そこで見るものは、資料として何枚かの「絵画」も展示されてはいるが、
おそらく、彼ら三人の「精神の形」なのだろう。

          
写真


 とても嬉しいのだけれど、実は、ちょっと緊張することが。
啓助氏が主宰していた「鴉の会」に途中から参加し、
お手伝いをさせて戴いたのが、この画廊と私との縁なのだが、
会場に展示してある「温」さんが着ていたというインバネスを、
渡辺家の方たちが私に下さるという。
温さんが亡くなったあと、啓助氏が、大事に保管しておいたものである。
ただし、飾っておくのではなく、着て欲しいと言う。
考えに、考え、頂戴することにした。
これは単に、物としてのインバネスではなく、
谷崎、渡辺温、渡辺啓助と、受け渡されて来た「精神の形」を戴くことになる。
本当に着こなせるだろうか。
今年の冬が、少し、怖い。
どの街が、このインバネスに似合うのだろう。やはり、銀座なのかな……。


渡辺温氏に関連する断片も、少し載せておきます。

■「短編礼賛」解説/大川渉著より抜粋
昭和5年(1030)兵庫県西宮市郊外の阪急線踏切で、
谷崎潤一郎氏から、遅延していた原稿を受け取った帰り、
深夜まで神戸で遊んだ渡辺温と長谷川修二の乗りこんだタクシーが貨物列車と衝突した。
後部座席に乗っていた渡辺温(当時、「新青年」編集者)は、近くの病院に運ばれたが、
脳蓋底骨折で死亡した。27歳だった。
谷崎氏は、渡辺温が文壇に登場するきっかけを与えた人物でもある。

■久世光彦氏評『美の死』所収「空の花籠」より
「夕方になると、夕風の吹いている街路へ、姉は唇と頬とを真っ赤に染めて、
草花の空籠を風呂敷に包んで、病み衰えた体を引きずって出かけた」
(渡辺温「可哀相な姉」より)

「もし、あらゆる小説の中から、一番美しい文章を一つ選べと言われたら、
私はほとんどためらいなく、このフレーズを挙げるだろう」

W.W.W.展は、31日まで、開催しています。
動画でのご案内です。会場の地図は、前の日記W.W.W.展の中にあります。

写真

http://jp.youtube.com/watch?v=l_r_arrYjTU


★2008年 mixi 日記より

W.W.W.展(渡辺濟)


2008年5月17日(土)から始まるW.W.W.展に寄せて。
説明が足りず分かりにくいですが、取り急ぎ間に合わないので、
アップします。後ほど整えるつもりですが、時間が取れなければ、
このままかも。まあ、成り行きで。

■17日のオープニング・パーティには、私も出掛けます。
もし、ご興味のある方は、是非いらして下さい。

『新青年』は、1920(大正9)年に博文館によって創刊され、
戦後の1950(昭和25)年までの時代を駆け抜けた、江戸川乱歩を筆頭に
さまざまな探偵小説の作家を輩出した雑誌のこと。
渡辺啓助、渡辺温の兄弟は、乱歩の名義でエドガー・アラン・ポーの短編を翻訳した方でもあります。

今回私は、もう一人の隠れた異才、渡辺濟氏について書かせて戴きました。


写真

W.W.W.展

渡辺啓助、渡辺温、渡辺濟・「新青年」とモダニストの影
――長すぎた男・短すぎた男・知りすぎた男――
2008年5月17日(土)~31日(土) 午前11時~午後6時30分(会期中無休)
●オープニング・パーティ 初日午後6時-8時
Gallery Oculus ギャラリー オキュルス 


彼について知っている いくつかのたしかなこと
                               
和泉 昇


   写真      写真
          若き日の渡辺濟氏                  製本前の記念冊子


 机の上に、一枚の履歴書のコピーがある。
 「昭和二十二年四月一日」の日付。
 「大正元年九月一日生」と書かれている。
 書いたのは「渡邊 濟(わたる)」氏。
 何のために書かれ、何故、コピーされて残っているのかは、私には分からない。

 作家の渡辺啓助、渡辺温、両氏を兄に持つということ以外、
彼がどんな経歴の持ち主で、どんな生活をしてきた男なのか、ほとんど私は知らなかったことに、気付く。
 私が知っていたのは、時折、高輪のギャラリー・オキュルスで、サファリ・ハットを被った彼にばったり出会うと、
「いずみくぅん」と、少々語尾が上がる茨城訛りの声音で、
びっくりするような話を、いつも楽しそうに聞かせてくれる。それくらいだ。
 もっとも、それ以前に、画廊主の渡辺東さんから聞かせてもらっていた話は、
彼に対する私の興味を惹きつけるのに充分なエピソードだらけであった。
 「網走番外地」という看板を掛けているという小児科医院の主であること。
火の玉が出るという噂があると、夜中にこっそり、信じている人のために、
わざわざ火の玉を作って山中を走り回ったということ。
休診日には、本職の靴磨きの靴を磨かせてくれと、実際に路上で磨いていたらしい。
それらが、全く嘘でも、誇張でもなく、本当の話だろうということは、彼と話していると、すぐにわかるのだった。
不思議に私には、とても「身近な人」だった。
血のつながりではなく、もし「精神」にも「家族」というものがあるのなら、
そんな親近感の感じられる数少ない人であった。

 ある日(一九九五年頃だったと思う)、彼が原美術館で、現代美術の作家の作品を見た帰りに、
「いずみくぅん。君にぴったりの映画があるから、見て来た方がいいよ」と言われ、
どんな作品なのかを聞くと、リュック・ベッソンの製作で、パトリック・ブシテー監督、
チャールズ・ブコウスキー原作の「つめたく冷えた月」。
青野聰氏などの紹介により、少しは浸透したとは言え、
ブコウスキー自体も、日本では、まだなかなか認知されにくい作家である。
しかもこの「つめたく冷えた月」は、屍姦を扱った映画。
大好きな彼の、私への名指しの推薦。早速、映画館へ出向いたことは言うまでもない。


写真  写真

                     その時の映画パンフレット


 あらすじは、二人の男が、悪ふざけで病院から死体を盗む。
それを見ながら酒でもと思っていたのだが(それだけでも破天荒なのだが)、
部屋に持ち帰ってシーツを剥がしてみたら、
それまでお目に掛かったこともないような、見事な肉体と美しい顔を持った美女が現れる。
我慢出来ずに、思わず二人ともが屍姦を。
しかし、片方の男は、その死体に恋をしてしまうのだ。
男が、その美女の死体を海に返しに行くラストシーンで、
沖に流れた死体が、人魚のように飛び跳ねて輝く幻影の映像には、
猥雑さを通り越し、突き抜けたような不思議な精神の清らかささえ感じられる映画だった。
八〇歳を越えた(たぶん)老人(失礼)が、見る映画か。
しかも、それを、将来ある私(笑)に、普通、薦めるか。まあ、こんな人であった。
 それ以来、彼に会えることが嬉しくなった。

 三〇歳の半ばを過ぎた頃からの私は、上達とか、出世とかと同様に、
「コウデナケレバナラヌ」という人種に会うのが嫌だった。
何でそんなものに拘わるのかい。
もうすぐ人は、死んで行くのに。
学問も知識も、所詮は、生きている間のちっとはましなゲームに過ぎない。
そんな感覚に捉われるようになっていた。
頭の中の理屈では、わかってくれても、根本的な深い感性の部分で共感してくれる人は皆無だった。
そんな頃に出会ったのが、彼だった。
 濟さんは、私にとって、善悪、真偽を超えた人。
金銭やら、体裁やら、世間の人間がいつも気にしてばかりの、
どうでもよい事に拘わっているくらいなら
「俳句のひとつもひねるか、一枚の絵でも描いている方が、
ずっと上等さ」というような気配を持っていた。
しかも、それを真面目に主張などせず、お茶目に軽く、さらっとやってのける達人でもあった。

 昭和 十一年四月 京都帝國大學文學部入學
            (たぶんドイツ文学)
 昭和 十四年三月 仝 校 卒 業
 昭和 十五年四月 岡山医科大學入學
 その後、應召ノ為メ休學、召集解除、復學
 昭和二十一年九月 仝 校 卒 業
       賞罰ナシ
 右ノ通リ相違アリマセン

 そうか、ふたつも学校を出たのか。
ただの変わり者ではなかったのだ、などと感心していては、濟さんに皮肉のひとつも言われそう。
そういう事ではないのだ。
わざとかどうか、ちゃんと四月一日に書いている。
用意周到というべきか。どこまで、シャイなのか。
 そう、最後に彼について、たしかに知っていることをもうひとつ。
彼に貰った大切な宝もの。
例によって画廊で出会ったある日、
「いずみくぅん。きみにプレゼントだぁ」と言って差し出してくれたのは、大きな落款印。
もちろん、自分で彫ってくれたもの。しかし、思わず吹き出した。
私の名前「のぼるいずみ」をもじって、「のびるいれずみ」と彫ってある。
やられた。
若き日の気取りも、歳とれば、そんなもんよ。
なんて一言も言わず、にやにやしながら……。
ホントに、嬉しかった。


                    写真


 彼は、駄洒落も大好き。
井上陽水が「リバーサイド・ホテル」を作った時には、
イーグルスのちょっと怖さのある「ホテル・カルフォルニア」が、
遠い連想だとしても頭のどこかにあったはず。
という気が私にはしているのだけれども、
濟さんの「三途の川ホテル」ってのも、どことなく哀愁があって、良かったなあ。

 セリーヌの墓碑銘は、確か、NON だったと思うが、
ブコウスキーの墓には、DON'T TRY と刻まれているらしい。

                            (いずみ のぼる 編集者、詩人)



原稿渡してからも直しちゃいました。
印刷物よりも、こちらが最新です。
ごめんなさい。

外向きだと、やっぱりまだまだ硬いですね。
もっともっと、肩の力を抜かなくっちゃね。



■下記のサイトを参照して下さいませ。
渡辺啓助
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%95%93%E5%8A%A9
渡辺 温
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B8%A9


                  写真

Gallery Oculus ギャラリー オキュルス 〒108-0074 東京都港区高輪3-10-7
TEL. 03-3445-5088 FAX. 03-3445-7518  E-mail oculus-a@khaki.plala.or.jp
〈交通機関〉都営浅草線高輪台下車3分 JR品川下車10分

★2008年 mixi 日記より

『源氏物語』上野榮子訳



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制作に当たらせて頂いた『源氏物語』口語訳全八巻(写真は、第五・六巻)



源氏54帖主婦が完訳
◇母親の介護の傍ら、80歳過ぎて自費出版◇

                     上野 栄子

「いづれの御時にか。女御(にょうご)、更衣(こうい)あまたさぶらひ給ひけるなかに……」。年老いた袴(はかま)姿の恩師が机の間を縫うように歩きながら、源氏物語を朗誦(ろうしょう)してくださった様子が今でも目に浮かぶ。旧制熊本県立第一高等女学校高等科時代の思い出である。

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千年紀に最終巻出版

その時から私は源氏物語と作者である紫式部の魅力にとりつかれた。子育てを終え、五十歳を過ぎてから念願だった現代口語訳を始めた。途中、母親の介護をしながら鉛筆を走らせ、十八年かけて五十四帖すぺての訳を終えた。源氏物語千年紀にあたる今年一月に最終巻となる第八巻までを自費出版した。作家でもない一主婦が手がけた口語訳である。これまでほとんど例がないようだ。
源氏物語の存在を初めて知ったのは旧制高等女学校二年生のころだった。京都帝大の学生だったいとこが故あって我が家で暮らすことになり、勉強を教えてもらっていた。そのいとこが「栄子さん、源氏物語を読んでごらん」と勧めてくれたのだ。
高等科(後の熊本女子大=現・熊本県立大学)に進むと、冒頭で紹介した恩師によってこの物語にすっかり魅了された。小柄な女性の先生だったが、抑揚をつけて実に見事に私たちに語り聞かせてくれた。言葉の意味がわからなくても、平安貴族が生き生きと現代によみがえってくるような朗誦であった。
結婚、出産、子育てと慌ただしく日々が過ぎる中でも、機会があるたびに現代語訳や、源氏物語のラジオ講座などに親しんだ。そしていつの日か自分自身の手で口語訳をしてみたいと思うようになった。作家の方々の素晴らしい現代語訳はあるが、訳者の思い入れを含んだものではなく、文語体を口語体に直訳し、紫式部の世界に近づいてみたいと思ったのである。


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(日本経済新聞 2008.4.18 文化欄)



専門家に頼らず自力で

日本古典文学大系(岩波書店刊)の源氏物語を底本にして、一九七七年十二月から口語訳を始めた。写本にはいくつかの系統があるが、藤原定家校訂の青表紙本を三条西実隆が校訂した、三条西家証本である。
「桐壺」「帚木(ははきぎ)」「空蝉(うつせみ)」「夕顔」……。台所仕事や掃除、洗濯などを終えてから、毎日少しずつ訳していった。宮廷の言葉や貴婦人の言葉、仏教の言葉、漢籍、故事などもたくさん盛り込まれているが、専門家に師事することなく、参考書や辞書などを頼りに自力で訳した。
分かりにくい表現に突き当たると声に出して繰り返し読んでみる。すると不思議に解読の糸口も見つかるものだ。鉛筆で書いては消し、分かりやすい言葉を選んだ。
例えば「桐壺」の最初は「どの帝の御代であったか。女御や更衣が沢山お仕えしていた中に、特に、高貴な身分というほどではないが、一際目立って帝のご寵愛(ちょうあい)を受けていられる御方があった」と訳した。よく「苦労した部分はどこですか?」と尋ねられるが、好きでやっているから苦労と思ったことはなかった。
三十四帖の「若菜」に取りかかっていた七九年八月のある夜、母から「倒れそう、助けてちょうだい」と電話が入った。急いで東京の自宅から熊本の実家に駆けつけると脳梗塞(こうそく)だった。間もなく心筋梗塞も併発。十数年、介護の傍ら母がうとうとと眠るわずかな時間に口語訳を続けた。完成間近になったころ、安心したように母は逝った。

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原稿用紙4000枚超

完成は九五年。万年筆で清書した原稿用紙は四千枚を超えた。念願がかない満足していたが、家族が自費出版を勧め、二〇〇五年に八十歳となったのを機に実現した。幸い専門家の方々からも「読みやすい」と好評をいただいている。
作者が紫式部という女性だからこそ私はここまで熱中したのだと思う。「桐壼」に、嫉妬(しっと)にかられた女御や更衣が通路に汚物をまいて、桐壼に嫌がらせをする場面がある。紫式部自身も才色兼備で宮仕えの際にはいじめられたかもしれない。だが、女性の嫌な面を憎まず、むしろそれを客観視して物語に昇華する。そこに紫式部のすごさ感じる。
源氏物語は日本の心の歴史を描いたものだといわれる。千年の時を超えて日本人の愛の心と、ものの哀れを知ることができるとは何と幸運なことだろう。もっとも私自身まだこの物語の本質を深く理解したとは思えない。さらに生涯学習のつもりで源氏物語の世界を読み解いていこうと思っている。(うえの・えいこ=主婦)

          ワイングラス

時期があまり遅くなっても、間延びしてしまうので……。
制作を担当させて頂いた上野栄子氏『源氏物語』口語訳(全八巻)の本冊が、二年ほど掛かってやっと完成(厳密には、あと函と付録の制作が残っていますが……)。このほど、日本経済新聞に上野氏が書いた記事を、取り急ぎ掲載しておきます。制作に当たらせて頂いた経緯などについては、またの日記で、後ほど(写真も、きちんとしたものと変えるつもりです)。


■日記周辺の「言葉の断片」(和泉)

意味がわかると本当に 結構凄い物語です。

世の中の「経済原理」からは、
はみ出したところでの仕事です。

いまどき、あり得ない話です。
だから作らせて頂いたのですが。

暇つぶしのゲーム、かも知れないし、
神様への祈り、かも知れない。

「あさきゆめみし」という、
時代考証などもちゃんとした
漫画もあるそうです。

その時代の「楽器」や「音楽」についても、
いろいろ書いてあります。

「男」というものが、いかに、
しょうのない「生き物」であるかについても……。

文化が経済原理に巻き込まれると、
何だか、寂しい気にもなりますね。

大人って何なのでしょうね?
源氏の中の男どもは、
子供だらけです。

源氏物語は、特殊な貴族社会の物語ですね。
「恋愛」という言葉も後世のものだし……。
女性の自由も限りなく少ないし時代背景ですし……。
私自身も一応は「男」なので、紫式部に見透かされて
いるような気がして、恥ずかしい限りです。
環境や舞台は変わっても、その物語の中に、
現代にも通用する「普遍」が書かれているのが
「源氏物語」の凄さでしょうね。

TBSのTVドラマ『源氏物語』で、
沢田研二を主役の「光源氏」に配した
演出家の久世光彦(てるひこ)さんも亡くなっちゃし、
何だか世の中、寂しくなりましたねぇ。

いつの間にか数ヶ月が経ち、
日経版をお届けすることも出来ました。

ばたばたしていると、
大事なものを、
落としてしまいます。

気をつけなければ。



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